


![]() |
||||
鈴木慶一さんが音楽に目覚めたのは、小学校高学年のとき。ラジオで聴いたベンチャーズがきっかけだったという。
「それこそ“電気に撃たれた”ような感じ。それまで夢中になっていたものが全部ふっ飛んでしまうぐらい夢中になったね」
中学に入りエレキギターを手にすると、早速ベンチャーズやビートルズなどの曲をコピー。また、音楽雑誌を読み漁り、洋楽の訳詞やギターのコード進行などを熱心に勉強した。
さらに、“詞と曲を書く”という夏休みの宿題がきっかけで、はじめて自分で曲を制作。そこからは曲作りにどんどんのめり込んでいく。高校時代は、バンド活動に精を出すクラスメイトには目もくれず、家でひたすらオリジナル曲の制作に没頭する日々を過ごす。
そんな高校生活も終わりに差し迫った1970(昭和45)年のある日、当時慶一さんの母親が勤める会社でアルバイトをしていたあがた森魚氏に出会う。二人はすぐさま意気投合。ジャックス・ファン・クラブのコンサートで、アンク・サーカスというバンド名で初のライブを行った。さらに同年、細野晴臣さんとの出会いをきっかけに、慶一さんは
18歳で日比谷野外音楽堂でのはっぴいえんどのライブに参加。本格的に音楽の道を歩んでいくことになる。
そして1972(昭和47)年、はちみつぱいを結成。“日本語で表現されるロック”の先駆者として活動する。
「もともと日本語でやろうとは思っていたんだけど、テレビで遠藤賢司さんやジャックス、頭脳警察を観て『こりゃ急がなきゃ!』と。また、はっぴいえんどの曲を聴いて『ヤバイ!』、南佳孝くんの『摩天楼のヒロイン』を聴いて『これはやられたな!』って思いましたね(笑)。当時はホントにライバルだらけ。でも、お互い仲が悪いわけじゃないし、むしろ『自分も何かやらなきゃ』と刺激しあえるような、すごくいい環境だった。おもしろい時代でしたね」
はちみつぱい解散後、1975(昭和50)年にムーンライダーズを結成。以来、その活動はもちろん、他のアーティストへの楽曲提供やCM音楽なども数多く手掛け、また2003年には『座頭市』(北野武監督作品)の映画音楽を担当。第27回日本アカデミー賞最優秀音楽賞を受賞した。そして、今年2月には曽我部恵一氏プロデュースのもと、ソロアルバムを発表。いつも新しいことに挑戦し続けている。
「ラジオから流れてくる音楽を聴いて、『いいなぁ』と思って楽器を持って、自分で演奏してみた。曲も作ってみた。そしたら、夢のような話だけどそれがレコードになった。その瞬間のめちゃくちゃ嬉しかった気持ち、つまり“リスナーのこころ”。それが今も常にあるんだよね」
ところで、慶一さんは1993年からサッカーも始めたそうだ。現在も、“職業がシニア草サッカー選手で、趣味が音楽”と語るほどの熱中ぶり。とにかく時間さえあれば、グラウンドでボールを追いかけている。
「サッカーをはじめていちばん実感したのは、“動いていないとパスはこない”ということ。これは曲を作るのも同じ。いい音楽を作るには、まずいい音楽を探すことが重要。そのためには、レコード店に行ったり、あるいはロックバーに行ったりと、常に動いてないと。立ち止まっていても、何も生まれないんですよ」
慶一さんは、サッカーを終えると必ずメンバーと一緒に飲みに行く。気持ちよく汗を流して“動いた”あとのビールは、とにかく旨い!としか言いようがないそうです。
このお店は、もとは「増田屋」という名で1951(昭和26)年から親しまれていた老舗そば店。現ご主人(3代目)のアイデアで、2005年にお店を改装し、「玄そば 東風」として新たにオープンしました。僕は以前近くに住んでいたこともあり、「増田屋」のころから通っています。
そばは、ご主人が厳選した全国各地(長野黒姫、福島会津、栃木益子、福井丸岡、北海道黒松内、茨城水府など)のものを新そばの季節に1年分仕入れ、それを低温貯蔵庫に保管。これは、「台風など天候の影響があっても、常に美味しい蕎麦が提供できるように…」とのご主人の思いから。それらを使う分だけ脱皮し、石臼で製粉して手打ちする。麺は極細でありながらもしっかりと弾力があって、なおかつ香りも豊か。定番の「せいろ」はもちろん、暑い夏には沖縄のもずく酢をのせた「もずくそば」もいいですね。また、そば以外では「親子丼」もおすすめです。
そして、もうひとつの魅力がおつまみの豊富さ。季節の一品料理を味わいながらのビールは、安らぎを与えてくれます。僕にとってラガーは、“安心して飲める味”ですね。

1951年東京生まれ。1970年より本格的な音楽活動を開始。ムーンライダーズや自身のソロに加え、高橋幸宏氏とのユニット、ビートニクスや弟である鈴木博文氏とのユニット、THE SUZUKIなどでもアルバムを発表。その活躍は多岐に渡る。