


1975(昭和50)年5月、シングル「二人の夏」をCBSソニーより発売。社内モニターでの評判がよく期待されるが、結果は芳しくなかった。
時代的にはセンチメンタル・シティ・ロマンス、シュガー・ベイブ、めんたんぴん、上田正樹とサウストゥサウスなどがデビューし、AIDOも彼らとの対バンのコンサートに出演していくが……。
「『聴かせてやる!』ぐらいの気持ちで最初はいましたけど、日比谷野音に出たら、オレたち一番下手じゃなかって落ち込みましたね、かなり。プレーヤーとしても落ち込むし、バンドとしても独自のものを目指しているといっても中途半端で、どんどん居場所がなくなってきた。だから吉野さんが言うのは全く正しかった。ライブハウスで演って揉んでいって、それでレコードを作って、そしたら上手くいったかもしれない。この頃、初めて世の中が見えて来たのかもしれない(笑)」
1975(昭和50)年9月、浜田省吾氏が脱退し、1976(昭和51)年4月ソロデビュー。AIDOは同年9月に2枚目のアルバム『LOVE IN CITY』を出し、その年の12月に解散する。
「解散してからも音楽をやりたいんだけど、どうしていいかわかりませんでしたね。いくつかスタジオやライブの仕事をさせてもらいましたけど、完全に自信喪失。揺れ動いていました」
少しずつ音楽から遠のいてしまいそうな頃、浜田氏がアパートを訪ねてきたという。コンコンとドアを叩く音が聞こえてきそうだ。4枚目のシングル「木枯らしの季節」のデモテープをもっていた。
「星勝さんのアレンジで高中正義さんのギター、ポップでいいなと思いました。で、すぐに『マネージャーやってみない?』って言われたんです。でもそのときマネージャーってあまりいいイメージを持ってなかった。でも、浜田の仕事だし、やってみようと思った」
しかし、マネージャー経験のない高橋氏は何をやっていいのか…。まずはライブの現場に行くと器材のコードを片付けたりしていたが、自分なりの仕事のイメージが持てないでいた。頭の中には芸能界のステレオタイプなマネージャーのイメージがくすぶったままだった。
「あるとき、スケジュールを埋めるにはライブをやるしかないと気がつくんですね。で、拓郎さんのツアーでまわったときの地方の関係者に電話を入れたり、少しずつ地方のプロモーターを紹介してもらったりして、地方のライブを増やしていった。たとえば、山形の小さいホールで25名の集客だったのが、次に行くと50名になっている。浜田の力を信じて、このことに没頭しました。少しずつだけど本数も増え、集客も増えていく。やりがいがあって、闘争心も沸いてきて、全国に浜田の仲間が増えていき、こんな楽しいことはなかった」
やがて、認知度が高まり1982(昭和57)年1月に武道館でのコンサートが決まる。
「1年半前に決定し、我々の目標設定が武道館に向かって各地からファンを連れて行こうという発想だった。だから武道館公演前年の全国ツアーはどの会場も100パーセント以上の力を出そうとスタッフがみんな一丸となった。あのときの武道館へ向かっていく高揚感は今でも忘れられないですね」
そして1983(昭和58)年にそれまで所属していたホリプロダクションと合意のもとで独立。ロードアンドスカイを設立する。