

第1回「日本ロック・フェスティバル」が行われたのは1969年(昭和44年)のことで、クリエイションやフラワーズなどが出演している。
永田友純氏は、このとき中学2年の14歳。このフェスティバルは見ていないが、すでに「恋の季節」で一世を風靡したピンキーとキラーズのコンサートの手伝い(坊やと呼ばれる雑用係)をし、これから続く長い道を一歩、歩み始めていた。
中学ではラグビー部に入り、先輩から聴かされた1910フルーツガム・カンパニーの「サイモンセッズ」に興味を持ち、洋楽を聴き始めている。すぐに「TELL ME」をきっかけに、ザ・ローリング・ストーンズにのめりこむ。音楽雑誌「ニューミュージック・マガジン」「ミュージック・ライフ」などを何度も読み返し、ウッドストック(※3)なるロック・フェスを知ったのもこの頃だ。ますますレコードを買い漁るようになっていた。
「ウッドストックは衝撃的でしたね。すぐにクロスビー、スティルス、ナッシュ&ヤングの『Deja Vu』を買って、何百回と聴いて傷だらけになると、また買い直して聴いていました。当時父親は僕がそれ以外に聴いていたクリームやピンク・フロイドなどブリッシュ・ロックのレコード・ジャケットを見ると『髪の長いのは許せん』と、またヒゲをのばしているミュージシャンを見ると『ヒゲは海軍大佐が生やすものだ』と、70歳を超えた明治生まれの浪曲の興行師でしたから仕方ないんだけど、よく衝突していましたね(笑)」
永田氏にとって興業とは生まれたときからの家の仕事であった。会社と家が同じビルのフロアにあり、当時の人気プロレスラーや歌手たちが出入りしている環境で育つ。小学校低学年の頃、美空ひばり、三波春夫、三橋美智也のステージへ父に連れられ、ステージばかりではなく楽屋の雰囲気も見ていた。
永田貞雄氏は当時、二葉百合子などの浪曲や大物の演歌歌手を手がけていた。ロックには耳を貸そうともせず、永田氏にはそれが歯がゆかったが、当然といえば当然と思っていた。しかし、反抗心めいたものが高校に入る頃から少しずつ膨らんでいくが、蛙の子はやはり蛙であった。
「原宿にGRASSという『ロックンロール・ボディカバー』というキャッチ・コピーでグラム・ロック的な洋服を扱っていたブティックがあって、そこに出入りしているうちに仕事をするようになっていまし