

桜の花びらが強い風に舞う昼下がり、村上“ポンタ”秀一氏は撮影スタジオに現れた。色合いのいいシャツ、肩にひっかけた白いコットンセーター、ずっとお洒落に敏感でいる艶やかな雰囲気や気分が漂う。
村上さんは1951年(昭和26年)京都に生まれ、4歳を過ぎるまで訳あって母親の親友の芸妓『ポンタ姐さん』に預けられて祗園で育つ。“ポンタ”という言われはここからきている。
今津中学入学と同時に、全国大会で毎年1位を続ける名門の吹奏楽部に入り、3年間みっちりとスパルタな音楽漬けの青春時代を過ごした。
いずれも不世出のドラマー村上“ポンタ”秀一誕生のルーツ。1972年(昭和47年)21歳のときに『赤い鳥』に参加することからプロの道を歩み始め、今日まで36年間で内外の数多くのミュージシャンと接し、ドラマーとして参加したアルバムは何と1万5000枚以上にのぼる。今回は日本のポップス界の黎明期を築くまでのお話を中心にお伺いした。KOパンチ連続、さぁポンタ氏の登場だ。
中学の吹奏楽部は修学旅行にも行けない、全国大会が終わった翌日だけが休みだけという相当厳しい部活だった。課題曲と自由曲を大会出場まで何万回と練習する。ちょっとでも間違えると先輩から鉄拳が飛んで来たという。
「入部したその日に音楽って文化系じゃないと思いました。超体育会系ですよ。だから、食らいつくって感じですね。授業をのぞくと朝5時から夜11時まで練習。入学したその日に顧問の先生に無理矢理入れられて、『お前は唇が薄いからホルンだ』って練習用の楽器を渡され、見よう見まねでフレンチホルンを必死に練習したよ。今でもそうなんだけど僕はテクニックよりカタチから入る。すぐに自分の楽器が欲しくなって当時48万円した『アレキサンダー』っていうメーカーのを買った。おじいちゃんからお金を借りてね。これは新聞配達のバイトで返した。俺の持論、楽器に投資できないやつは他人を感動させる音楽なんか作れるわけがない!」