作曲家になるきっかけ

 村井邦彦氏は、1945年(昭和20年)東京の生まれ。慶應義塾大学在学中は名門バンド「ライト・ミュージック・ソサエティ」に所属。すでに中学生の頃から友人や友人の兄の影響もあってマイルス・ディビスやギル・エバンス、ジョン・コルトレーンなど1950年代後半から60年代前半のモダン・ジャズを聴き、ビバップの高度な演奏などを研究していた。
 バンドではピアノを担当し、夏休みとなると全国にある三田会を訪ねての演奏旅行。ジャズに明け暮れる学生だった。友人たちには、のちにミュージカル「ヘアー」をプロデュースする川添象太郎氏、ファッションモデルでありレーサーになる福沢幸雄氏がいた。飯倉の<キャンティ>は、彼らのたまり場でもあり、進取の気性に富んだ常連の大人たちが何か新しいことをやろうとする若者たちに理解を示してくれていた。
 時は1960年代半ば。大学3年の村井氏は進路のことでレコード会社に勤める先輩に相談へ行く。

すると洋楽に詳しい後輩へ「レコード屋でもやったらどうか」とアドバイスがあった。面白そうだと、すぐに赤坂で「ドレミ商会」という小さなレコード屋を始めた。日本は高度成長の真っ盛り。近くのニュー・ラテン・クォーターなどの大きなキャバレーは華やいでいた。村井氏の海外や日本のポップスの品揃えが目を引き、お店は繁盛した。
「アンディ・ウィリアムスとか並べて、もちろんビートルズも売れましたが、ジャッキー吉川とブルーコメッツの『ブルー・シャトー』(昭和42年)というドーナッツ盤が当時滅茶苦茶売れたんですね。なんでだろうと聴いているうちに、これなら自分でも出来る(作曲)な、と思ったのが作曲家になるきっかけかな。友人に話したところ、さっそく話がきまして、ヴィッキーの『待ちくたびれた日曜日』(昭和42年)というのを書き、それがチャート・イン。それからテンプターズの『エメラルドの伝説』(昭和43年)がヒットし、がんがん依頼が


CLOSING TIME マスターの独り言

あの街、この街、ラガーのうまいお店

味の継承 郷土料理を自分で作ってみよう!


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