井上鑑さん(音楽家)
撮影:堀清英 Kiyohide Hori
「音を出している時に言葉にはならない会話がある」井上鑑さん(音楽家)

 キーボード演奏者、アレンジャー、プロデューサーとして多数のプロジェクトで活躍の井上鑑(あきら)氏は、1953年(昭和28年)東京は世田谷の生まれ。父親はクラシック界、チェリストの第一人者である井上頼豊氏<※1>。幼少の頃、家に多くのレッスン生が集まり、聴こえてくる練習曲を知らない間に覚えてしまったという。聴き手としての耳、これはこのときから自然と鍛えられていた。
 
 父親からクラシックへの道を強制されることはなかったが、桐朋学園大学音楽学部作曲科に入学。在学中にCM音楽作家としてデビュー、またピンクレディーの作品にも関わりプレイヤー、アレンジャーとしても注目されていく。
 
 1981年(昭和56年)28歳のときに、寺尾聰氏の シングル「ルビーの指環」、アルバム「REFLECTIONS」でレコード大賞編曲賞を受賞。同年、シングル「GRAVITATIONS」でソロ・アーティスト・デビューし、これまで13枚のオリジナルアルバムを発表。さらにアルバムプロデューサーとして杏里、爆風スランプ、オカリナの宗次郎、三味線の吉田兄弟など多方面でその実力を発揮している。今回は特にアレンジャーとしての井上氏の側面にふれる。

※1 井上頼豊(1912年−1996年):[音楽教育者でもあり、桐朋学園大学などで後進の指導にあたる。執筆活動ではショスタコーヴィチやプロコフィエフの伝記を著す]

78年この道へ進むきっかけ

「友人のお姉さんからビートルズの『ラバーソウル』を借りて聴いたと思うけど…」と井上氏の記憶のなかにある初めて聴いたロックへの思いは、淡々としたものであった。むしろ音楽よりも六本木の自由劇場で斉藤憐氏、佐藤信氏、吉田日出子氏の芝居を見ることが好きだったことや、青山にあったVANの99ホールのファミリーセールの思い出のことの方がしっかりと残っていた。高校は都立青山高校、当時聴いていたのはチック・コリアがマイルス・グループを脱退してフリージャズに転換した頃のサークルのアルバム(バリー・アルトシェルDs、デイブ・ホランドB、アンソニー・ブラクストンSax)やその後の「リターン・トゥ・フォーエヴァー」だった。渋谷のジャズ喫茶に入り浸り、まだ高校生ながら大学のジャズ研に毎日のように出没していた。


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