


マスターは「ラガー探訪ノート」にご登場いただいたベーシストの田中章弘さんの永年のファンであり、これまで何度かお話をさせていただいているが、じっくりお話を伺ったのは今回が初めて。
田中さんの行きつけ「酒彩 羽々和」にて、諸々の撮影が終わってから、このお店のもうひとつの名物料理でもある、きりたんぽ鍋をいただきながら交友を深めたのである。
田中さんのベースは、とにかくいつ聴いてもしっかりとしていて、脇役に徹底し、その底力たるや納得させられる。そんな話をしながら、鍋である。
鍋ほど楽しい食べ物はない。目の前で鶏肉や野菜やきりたんぽが煮え出すと、その湯気が、堅苦しい話はやめにして、そろそろ食べる準備をしてくださいと語りかけてくる。田中さんとマスターばかりではなく、仕事を終えた撮影スタッフも3人加わり計5人が3人前の鍋に取り囲む。
まずは、ゲストである田中さんが鍋にお箸を入れるのを待つ。鍋は、このメインゲストがお箸をいれたところから、あとは皆目立たぬように食べたいだけ食べるというスタンスになる。ただ各自、最初は田中さんの動向を気にする。田中さんが野菜をちょっとつまんだとするなら、それなりにちょっとという意識が働く。ここで鶏肉もきりたんぽも目一杯取ってしまってはいけないと思う。で、全員それなりにちょっと取る。
で、田中さんの2回目も気にするのだが、ここまでだ。だって鍋は煮え、ちょうどいい案配になっていくわけで、田中さんの2回目が終えたところから、誰もが食べたいのをコツコツとあせらず、ただし、食べたいのだけ食べていこうという気になる。
キリンラガーの大びんがなくなると、また冷えたのが運ばれてくる。マスターは田中さんにビールをつぐ。田中さんもついでくれる。なんか嬉しいひとときだ。熱々の鍋、冷えたラガー、話は共通の知人の話などとなり、ビールを美味しそうに飲み干す田中さん。マスターはここらでさっきから目をつけていた鶏肉に目をやると行方不明になっており、新たな鶏肉を探す。探しながら、そうかと思う。そうだったのかと思う。新たな冷たいラガーが運ばれてきたときに気をとられ無防備になっていたのだ。

まさか、狙っている具を見ながら「それボクの」などと言いながらビールをつぐわけにもいかず、ここにスキが生まれたのである。
鍋は、今は野菜を食べているから今度は肉ね。その次はちょっとスープを飲んで、きりたんぽいくからねといった誰もがリズムがある。その流れの中で、新たな冷たいラガーは、そのリズムのなかの、さらなる楽しいリズム、喜びの句読点といってもいいだろう。おっとここでまた冷えたビールが旨いんだなぁなどと、いい感じになるのだ。
で、気を引き締め再度鍋に参戦するのだが、具材がこれまで以上にかなり減っていることに気がつく。ある人物のグラスを見ると、ビ−ルが空のままだった。自分でつげない人って結構います。ここでなるほどと思う。ビールを誰もついでくれない寂しさから食いに走ったのであろう? いろんな孤独があるものだが、ビールはさりげなくついでさしあげましょうね。でもみんなそれどこどころじゃないのが鍋なんだなぁ。
「MUSIC MAN」にご登場いただいたロードアンドスカイの代表取締役、高橋信彦さんに行きつけのお店に連れていってもらったことがある。青山の裏手にあるこぢんまりとした料理屋であった。年配の仲の良さそうな夫婦がやっていて、メニューには活魚が並ぶ。マスターは旨い魚を置いてある所を知っている人にはもの凄く敬意を払う。それはなぜかというと、お酒を美味しく飲むには魚が肝心で、旨い魚を知っている人は美味しいお酒を知っており、こういう人と飲むと酒の席まで楽しいものとなる。
で、常連ならではの気遣いか、キリンラガービールが運ばれ乾杯が終わると、すっと刺身盛り合わせ(大盛り)が運ばれて来たのである。その大きさは家庭のまな板1.5倍のスペースに、トロ、中トロ、白身、しめ鯖、貝類、イカなどなど各4切れ(大ぶりにカット、どれも高級そう)が綺麗に盛り付けされてあった。
マスターは目上の方と飲む場合、切れ数に注意を払う。4切れということは、つまり2切れずつなのだとすぐに認識する。また、どこか間違ってしまった5切れはないかとも素早く見渡す。この場合、自分は間違っても3切れ食べてはならないと注意深くなる。
それからビールを飲むのである。このひと呼吸が大事で、まずは相手が刺身にお箸をつけてからいただくことにしている(時々、わさびや大葉などの醤油関係に時間をかける人もいるが、その場合はじっと待つ)。
また、相手がトロにお箸をつけたら自分はちょいっと格下のイカからいくことにしている。相手がイカからきたら、ツマなんかでモジモジする。モジモジの次に貝類なんかにいってみる。さらにワカメに手を出し、何も無かったようなフリをして話を続けるのである。

大盛りにおける2人で飲むときの刺身道は大変なのである。大勢の場合はこれをやっていると食べ損なうので、ここは自然に食べたいものから手をつけます。
さて、高橋さんがプライベートで15年続けているバンドの話を聞くのに夢中になってしまい、中トロを3切れ食べてしまったのである。なぜにそうしてしまったのかは分からない。つい食べてしまったのである。動揺。それまでのイカ、しめ鯖、貝、中トロ、トロというリズムが狂ってしまった。とっさに今自分が出来ることは、まだ一切れしか手をつけていないトロを高橋さんに譲るべきである。
しかし、それを「高橋さん、トロどうぞ。先ほど私、中トロを1切れ多く食べてしまい、誠にすみません」と口にするのはいかがなものだろうか? ここでまた動揺するが、また話に夢中になりビールを飲む。まな板の刺身は大方なくなり、トロ一切れが残った。これ凄く気まずい。高橋さんは「これどうぞ」とすすめてくれた。「あっ、すいません」といって食べてしまったのだが、今でもそれで良かったのか、マスターは3切れ問題を深く反省しているのだ。旨い刺身、楽しいひとときにおける切ない思い出でした。
マスターは今回「ラガー探訪ノート」にご登場の前嶋輝さんと、ロシアがソビエト連邦(USSR)だった頃、一緒にモスクワに行ったことがある。
1990年のことで、前嶋さんは松任谷由実さんの映像班、マスターは雑誌取材班であった。ユーミンがロケット、ソユーズの打ち上げを見たいということで実現した企画だった。これはTBSで放送されている。
で、我々はモスクワの星の町という宇宙飛行士やその関係者などが暮らす町を取材した。日本人の宇宙飛行士の第1号となった秋山豊寛氏がトレーニングに励んでおり、インタビューさせていただき、その後打ち上げ基地のバイコヌールへ飛んだ。
日本人スタッフは基地内のホテルに宿泊する。前嶋さんとマスターの部屋は隣同士で、同行の写真家ともどもマスターの部屋で食事をすることになった。このときは日本から食料を持っていったのである。
各自いろいろ、マスターは即席味噌汁とかカップ麺とか羊羹とか(甘いの好きだからね)、写真家もそんなところだったが、前嶋さんは違ったのである。なんと、「かに味噌」缶詰を3個も持ってきていたのだ。
ロシアにかに味噌、なぜなのか聞くと「美味しいから、いいじゃないですか」とそっけなかった。このための買い物を会社のスタッフに頼み、その人が買ってきたと言う。
で、3人で夜、かに味噌をパッカンし飲み始めた。前嶋さんはかに味噌をスプーンに大盛りにして食べ、凄く旨そうな顔をしたのである。「何だ好きなんじゃない」と言うと、大きな声で笑い出した。
つまり、そのときマスターと前嶋さんは初対面に近く、前嶋さんは、かに味噌は色がグロテスクだからか、そういうものを自分から積極的に食べると思われたくなかったのだ。人間って初対面の人に対してそういうところありますよね。

さて、ロケットの打ち上げというのは、近くで見ると感激がある。あっという間に空高く飛んでいってしまうのだが、その瞬間の音と火花に圧倒される。ただ、マスターは残念なことに水があたったのか、その瞬間はお腹をこわしていて、爆音が腹に響いたのであった。
もう18年の前のことになるのだが、秋山豊寛さんがロケットに乗り、大気圏から地球を眺め、そのとき美空ひばりさんの『川の流れのように』を聴いたらしい。さぞや心にしみたでしょうね。
では、今回はおとなしく終わらせていただきますが、実はこれから仲間たちとの忘年会。まずはビールで乾杯。2008年を思いながら、さぁ今年はどんな味がするのでしょうか?
「MUSIC MAN」の取材で、アコーディオン演奏者のcobaさんにお会いした。いろいろとお話しているうちに、彼が留学したイタリア、そしてイタリア人の話題になった。
マスターもイタリアはベニスやローマ、ミラノなど3回だけ行ったことがある。もう随分前のことだが、ミラノにいる男3人組のマイ・マインというバンドを取材に行った。そのときに。ミラノの郊外コモ湖周辺を撮影のロケハンでいろいろとまわった。割とのんびりしたスケジュールであったため、コモ湖を船で周遊し、カフェみたいなところに入ると、そこはいい感じに古びたところであった。
親父たちが数人でテーブルを囲み、ポーカーをしていた。これが着ている普段着のジャケットが何ともかっこ良く、やっぱり日本人はイタリア男の着こなしにはかなわないと思った。
無駄話が長くなりましたが、さて、cobaさんがイタリア人の生きることを楽しむ貪欲さを、“欲望上手”と話してくれたのだが、マスターも欲望上手になりたいと思った。しかし、どのようにすればいいのか、これが難しい。
欲望とは、辞書を引くと「ほしいと思う心。不足を満たそうと強く求める気持ち」とある。ほしいと思うこころも、不足を満たそうと強く求める気持ちも、それはマスターもキリなくいろいろありますよ。デジカメの新しいのが欲しいし、今冬流行のダウンベストも欲しいし、また、このところクリエイティブ関係者のギャラの不足感には強く求める気持ちもある。
でも、欲望の塊なんて言われたくないし、欲望がなさ過ぎるのは元気がないということだと思っている。つまり欲望上手とは、人生を楽しむためのバランス感覚なのでしょうね。

さて、今夜の欲望に対して自己問答してみる。
「今、君はこれから何がしたいのかね?」
「ハイ、まずは冷たいビールを飲みたいです。cobaさんの新アルバム『僕のエレキュート』も一緒に聴きたいです。」
「それから、旨い晩ご飯を食べたいです」
「おかずは何がいいのじゃ」
「ハイ、昨日がカレーでしたから、それ以外だったら何でもいいです」
「その後は?」
「ハイ、干したてのフカフカの布団にくるまって、ぐっすり眠りたいです」
「ささやかじゃのう」
さぁ、ビール飲もうっと。キリンラガーが今夜もおいらを待っているんだぜ。
今回の「ラガー音楽談議」でお伺いした「ノヴェンバー・イレブンス1111」は、宇崎竜童・阿木燿子夫妻の経営によるライブハウスだった。
店長の青島啓介さんが、このお店に入るために夫妻との面接時、「実は二人が誰なのか分からなくて、すぐ実家に電話して、こんな人たちにお会いしたと話したら、両親はびっくりして……」と話してくれたのだが、それはさぞや驚いたに違いない。
もしマスターが青島さんの親だったならば、電話でまずは宇崎竜童さんがダウン・タウン・ブギウギ・バンドで登場した頃から話をするだろうね。「デビューは1973(昭和48)年、長島茂雄さんが引退した年、白いつなぎを着てサングラスをかけた5人組でデビューした」と。するりとこうきて、続いて「74年『スモーキン・ブギ』がヒットして、翌75年に『港のヨーコ・ヨコハマ・ヨコスカ』が大ヒットし、紅白歌合戦にも出場したのだよ」と。で、こう続けるね。「この曲で宇崎竜童さんがニヒルにつぶやく『あんた、あの娘のなんなのさ?』っていうのが子どもたちの間でも流行って、家の近所では、息子に妹を指差され、それを聞かれ『はい、父親です』なんて答える親もいた」と。笑いもとっちゃおうとするがあまり受けないぞと。
そして、ここからは親としてというよりも個人的な感情も入り乱れて、熱弁となる。「ダウン・タウン・ブギウギ・バンドはバラード調の歌が良かったんだ。特に『知らず知らずのうちに』とか『身も心も』とか、これを聴いてな、父さん、たっぷり涙を流したよ。その頃、好きな人がいてな、遠距離恋愛でな、それはそれは綺麗な人だった。でも、なかなか会えなくて。この女(ひと、と読んで下さい)、母さんと知り合う前に付き合っていたんだ。母さんには言うなよ。父さん、もう思い出ぼろぼろだよ。あっそうそう、『思い出ぼろぼろ』って曲は宇崎・阿木コンビで、内藤やすこさんが歌って、76年に日本レコード大賞作曲賞を獲ったんだ」と話すことだろう。

電話を切ったこの父は(マスターすっかりなりきりです)、おもむろに家のCDラックから『山口百恵 ベストセレクション2』を取り出し2曲目の「乙女座 宮」から聴くのであった。で、心のなかでつぶやく。「これは確か新宿2丁目のゲイバー『新幹線ひろし』で初めて聴いたんだ。同時期、田原俊彦の『恋=Do!』なんかも流行っていたな、踊ったな。そういえばサザエっていうゲイディスコもあったな。楽しかったあの頃…」などといろんなことを思い出す。
流れているCDは3曲目の「プレイバックpart2」となり、「馬鹿にしないでよ」と口ずさみ、このへんから飲みたい気分になってきて冷蔵庫に近づく。すぐさま4曲目の「絶対絶命」でキリンラガーの缶ビールを取り出し、「さあさあ さあさあ はっきりかたをつけてよ」と、もう仕事はおしまい。勝手にはっきりと、かたをつけちゃって、今夜も飲もうということになるのであった。
今回「ラガー探訪ノート」にご登場いただいた油井昌由樹さんとは、ある雑誌の「夕陽を見る旅」という企画で何度かご一緒させていただいたことがある(マスターは担当編集者でした)。
そのなかで思い出深いのは佐賀県でのこと。インターナショナル・バルーンフェスティバル(嘉瀬川河川敷で開催される熱気球の国際大会)へ行き、バルーンに乗って夕陽を見るという内容であった。それは前夜祭。世界から参加した人々のバルーンが大きく膨らみ、河川敷に並んでいる。油井さんは体験的にバルーンに乗り、上空から夕陽を撮影する。その日の夕焼けは空一面を茜色に染め、そこに浮かぶ色とりどりのバルーン、その光景は幻想的でもあった。これまで3万枚ほどの夕陽を撮影している油井さんも感激されていた。
前夜祭と大会日の2日間を取材し、取材を終えた我々は19時何分かの飛行機で博多から帰ることになっていた。佐賀から博多へ。飛行機の時間まで少し時間があるのでビールでも飲もうということになって油井さんと寿司屋へ入る。「キリンの冷えているの」と油井さんが頼む。油井さんがここがいいという店は大概当たるのだが、そのときのお寿司屋も旨くて安くて、お店の人も感じがよかった。
で、飲んだり、食べたり、笑ったりしているうちに「今、何時かな?」という油井さんの質問に、「えっ、もう18時30分ですよ」となりマスターは我に返り、そしてあわてた。油井さん「もう無理だな(東京に帰るのは)、泊まって行こうか」と平静であった。「宿はどうしますか?」「何とかなるんじゃないの」となり、ビールを傾ける。こういうことをまるで何も無かったかのように、というのであろうが、マスターも油井さんも翌日の早い時間の飛行機で帰れば何とかなるし、つまり、もうちょっと博多の夜を楽しみたかったのである。
油井さんの「何とかなるんじゃないの」が心強い。しかし、人間とは決心すると大胆なものである。お寿司を、もっとつまむということになり、「今日は何が美味しいの?」となり、油井さんもマスターも板前さんと和やかに話したりして、板さんもこっちが帰れなくなって、もっと博多の夜を楽しみたいという気持ちを汲んでくれたのか、あのバーがいいとか、あそこが面白いなどと教えてくれるのであった。結局、宿はカプセルホテルとなり、一度外出したものの、お互い持ち合わせがないことに気がつく。で、せめて博多ラーメンでもと思い、食べて無意味にぶらぶらして宿に戻ることに。

油井さんは隣りのカプセルで即、寝てしまいグーグー。マスターは宇宙の旅への乗り物みたいなカプセルで、大小のグーグーを聞きながらやっぱり帰れば良かったと、なかなか眠れなかったのでありました。教訓その1、急な予定変更はあまりいいことがありませーん!
「ラガー音楽談議」の取材で東京・世田谷にあるソウルバー「音楽酒場STREET CAFE」のオーナーであり、ベーシストの長野豪毅さんにお会いした。
「やっぱり40代、50代のソウルファンはお酒もよく飲みますし、好きなソウルナンバーが流れると立ち上がって踊りますね」という長野さんの話を聞いて、マスターは凄く嬉しくなった。だって、それが人生の喜びではありませんか。
さらに「カップルのお客さんがいらっしゃったときには甘ーい曲をかけたりもします」というのにもの凄く反応したのです。で、マスターはかつて六本木のスクエアビル近辺にあった「プラスワン」とうディスコを思い浮かべた。ここはカップルに人気だった。(確か男だけでは入れなかった気がする)
このへんをよく説明すると、ディスコというのは男だけ、女だけで、それぞれ何かを求めて行くというパターンがありますよね。この場合、男の目は血走ったりして、喜ばしい出来事を期待しているわけです。
また、男女のグループという団体パターンもあって、この場合は「なんとかこの機会にグループ交際から単独に持って行けるようにさらに親交を深めたい」というそれぞれの思惑たっぷり、恋のバトルですね。
で、こういったディスコの選曲は、基本元気な曲で、甘ーい曲少々。元気な曲で思いっきり踊ってよからぬエネルギーを発散させ、甘ーい曲のときは座って休憩するというのが普通の青少年の清い姿であった。
しかし「プラスワン」はそういった男女が集まるディスコとは違い、完全にステディな関係、もしくはステディ直前のカップルが行くところだったのである。この違いは大きいぞ。だって甘ーい曲の連続。時々元気な曲が流れるが、基本は甘ーい曲。甘ーい曲にどっぷり二人で浸る(チークだぞ)のが二人の正しい姿で、元気な曲で休憩となる。前者がガツガツならばこちらはベタベタ、前者がボロボロならばこちらはピカピカ。前者がバタバタならばこちらはフラフラなのである。

そうフラフラになるまで甘ーい曲を聴き続け、特にステディ直前のカップルは床に倒れそうなのであった。それだけ甘ーい曲っていうのは何か恐ろしい魔法とでもいうのか、見つめ合うカップルをいい感じでコロリんとしてしまうパワーがあるんだね。
マスターは「音楽酒場STREET CAFE」でこんなこと思い出してしまったのである。頭の中ではスタイリスティックスやマービン・ゲイなどが流れていた。また、あの頃の女性はわりと飲む人が多かったような気がするなぁ。
当時、どうやって女性に声をかけたのか思い出してみると、自分のハンカチをあえて手にして「お嬢さんハンカチ落としませんでした」と見せる。そして「すいません、これオレのでした」なんてトライして、嫌な顔をされたらすぐ引いて、笑ったら「どうです?ご一緒に」であった。こんなんだからいつもガツガツで、ボロボロで、バタバタであったが、モテナイ男には同じようにモテナイ男の仲良しというのが必ずいる。前回も書いたが踊りまくった後は焼き鳥屋なんかに行って、キリンラガーの大瓶からグラスについで、「スタイリスティックスってさ、裏声で歌ってダセーよ」なんて言いながら飲むのでありました。ラガーは旨し、ベタベタのピカピカのフラフラの思い出はホロ苦し。どうです、ご同輩?
今回の「MUSIC MAN」は近田春夫さん。マスターが初めて生の近田さんを見たのは六本木のライブハウス「KENTO’S」であった。時は1976(昭和51)年、映画『アメリカン・グラフティ』の影響でロックンロールブームがやってきて、若者たちは「KENTO’S」でライブを聴きながらツイストを踊ったのである。そこに近田さんはダーティー・サーティーズのメンバー(キーボードを担当)として出演していた。マスターは21歳、近田さんは25歳ぐらいだったと思う。
ダーティー・サーティーズは『ブロード・サイド・フォー』の黒澤久雄氏、GS『ヴィレッジ・シンガーズ』のドラマー林ゆたか氏、GS『スウィング・ウエスト』のギタリスト山本徹氏、『バニーズ』のギタリスト鈴木義之氏、「若いって素晴らしい」や「トマト・ジュース乾杯」のヒットを飛ばしたアイドル歌手・槙みちるさんがボーカルで、当時としては凄い面々だったのある。そこに近田さんがいて、やっぱり凄い人なんだと思った覚えがある。
ダーティー・サーティーズは「ダイアナ」とか「オーキャロル」なんかを演奏し、お客はツイストを踊るのであった。で、元スパイダースの面々や芸能人のお客も多く、毎夜大盛り上がり、有名人の飛び入りもよくあった。
マスターはここでも踊っていたのである。ツイストは見よう見まねで踊れるものなのだが、大きく分けて、大人しく踊る人と騒がしく踊る人の2タイプに別れる。大人しく踊るタイプは曲になんとなく合わせて手を振りながら、腰を振る。それだけです。全く他人には迷惑をかけないもので、マスターはこのタイプであった。(場が場だけに緊張していたということもある。ムッシュかまやつさんなんかもいたんだ)
騒がしく踊る人っていうのは、踊りながら踊っている他の人の両足の間に足を入れて、のけぞりながら踊るのである。相手もこれに合わせて一緒にのけぞったりして、さらに騒がしいタイプは腰を落として上下しながら踊るのである。何でそんなことをしているかというと、ノッているからである。昔も今もノッている人は手のつけられないエネルギーを発し、それなりに場を盛り上げているので、イイもワルイもない。どっちかっていえばそれなりに見応えがあってイイのだ。

とにかく「KENTO’S」は凄かった、踊る人もミュージシャンたちも汗だく。男性客はリーゼントのヘアスタイルの人もいて、Tシャツの袖をまくって、そこにタバコ(キャメル)をはさめたりして、アメリカン・グラフティの影響を受けていたんだね。それからチークタイムっていうのもあったと思う。ライトが落ちて薄暗くなりイケナイ雰囲気。マスターは経験なし、そこはそれなりに実力のある名のある強者どもの世界だと思っていたのである。マスターは100%男の友人と行っていたのだが、「KENTO’S」を出ると飲み直しで居酒屋へ直行。汗もたっぷりかいて緊張感もとれて、男っぽく大びんラガーをグッと持ってグラスに注ぐ。このときばかりはロックンローラーを気取ってワイルドに飲む。旨いやら、ほろ苦いやらで、モテなかったんだねー。
「探訪ノート」にご登場いただいた作家のロバート・ハリスさんと、“最近、本屋とレコード屋に行っているか?”という話になった。皆さんはいかがですか? ハリスさんはインターネットでものを買うことをせず本屋やレコード屋で買う。なぜならそこが好きで気分転換、時間つぶしになるという。で、マスターはここ半年以上行っていないことに気がついた。なんでもかんでもインターネットになってしまったのである。
ハリスさんは本もCDもこまめに買い求め、であるからして音楽もCD派でダウンロードは使い捨ての関係になりそうで怖いという。好きな音楽(CD)をクルマや家のステレオでじっくり、とことん聴くタイプ。そうするとそのアーティストのバックグラウンドや思想が分かると言う。マスターはダウンロードを始めたが、iPodが2カ月ほど前から仕事場で行方不明になってしまい、音楽生活はCDに戻ってしまった。本当にどこに行ってしまったのか、せっかくダウンロードのやり方を覚えたのに残念だ。
しかし、このインターネットでの買い物がすっかり癖になってしまった。CDも本もすぐに届くし、こんな便利なことはない。で、オークションをやりだすと、ついつい必要のないものまで買ってしまう。ちょっとこれまでのマイオークションの落札分の履歴を見てみると、ガラス瓶3ダースというのがあり、これは花瓶にしようと思いクリックしたら3ダースからで、それは後の祭り。また、想像していたより5倍も大きかった土瓶もある。
先日友人がインターネットで子犬を買い、家にきたときはかなり大きくなっていたとこぼしていた。そんな犬までネットだなんて信じられないのだが、インターネットってやりだすと何か魔力がある。これまで何を買っても我ながらいい買い物をしたという気分、これがある。
でもハリスさんと話をして、やっぱりほどほどにしようと思った。やっぱり80センチもの土瓶は邪魔だし、ガラス瓶にいたっては、もらってくれる人もいない。これらをどこぞの古道具屋で見たら、こんなの売り物かと、またこんなの誰が買うのかと首をかしげ、きっと趣味の悪いオヤジが騙されて買うんだろうなと思うはずだ。
またお店の人も、こんなの置いておけばどっかのおっちょこちょいでも買っていくんじゃないの、なんて感じで売っているのではないか。(私か!)

でも懲りずに最近欲しいのは、お家で炭火焼七輪セット3,200円。これでサンマを焼いてラガーを飲む(大根おろしたっぷり。なるべく辛いところ)。また、松茸(外国産)をころがしてラガーを飲む。ほくほくの焼きたてジャガイモはバターと塩でいただき、口の中を塩バターにしてラガーを。うわーたまりません。これだってかなりの気分転換ではないかい。ハリスさんも分かってくれるだろう。(もうクリックしちゃったもんね!)
マスターは、ホノルルでウクレレ・フェスティバルを見に行ったことがある。もう15年も前のことだが、それはフェスティバルが第23回目のことで、場所はワイキキ東端にあるカピオラニ・パーク。
噂によると、ジョージ・ハリスンが見に来ていたらしいんだな。午前10時半の開演でステージにはウクレレを持った子どもたちが並んだ。このフェスティバルは子どもたちが主役で、日頃の練習の成果を発表する場なのだ。(もちろん大人もプロも出演、ハーブ・オオタさんも後半に演奏した)6歳の子どもたちのバンドが出て、「きらきら星」を演奏し、またスーパーケーキなる上手な子どもたちのバンドも登場し、ウクレレを弾く手の動きがあまりにも早く驚いてしまった。
このときパークには500人ぐらいの観客が集まっていた。お昼休みになるとステージに出演した子どもたちはファミリーとこのパークでピックニックのようなランチタイムだった。運動会のお昼みたいなクーラーボックスを広げビールを飲むお父さん、サンドイッチを食べる子どもたち。和気あいあいとしたとてもいいひとときだった。今回「MUSICMAN」にご登場いただいたジェイク・シマブクロさんもきっとこのフェスティバルに子どものとき参加していると思う。突出した巧さで大人顔負けだったに違いない。
そして、マスターはこのフェスティバルを見てからウクレレが欲しくなり、カマカを訪ねたのである(あまりにも子どもたちが楽しそうに弾いているもので)。このときカマカでいろいろ説明を受けた。素材がコアという海抜450〜600mの山腹に原生するマメ科の植物であること。そしてこれはハワイの人々にとって神事に用いられる神木であるということ。カマカのウクレレはハワイでしか採れないものを使っているということ。

で、パイナップル型のウクレレが190ドルで売られており、他と比べると凄く安い(ワケありだったのかもしれない)。マスターは迷い、一晩考えようとカマカを出る。それまで衝動買いしてよかったことなかったからね(マカオで偽物の翡翠の指輪をつかまされたとかとか多々あり)。でもこれは買いだと、カマカだと決心して翌日買いに行くと、これが売り切れなのであった。残念!
ウクレレの言葉の持つ意味はハワイ語でウクが“蚤”でレレが“跳ねる”(ポルトガルの民族楽器の4本弦の小ギター、ブラギーニャがハワイに持ち込まれ、それを奏でるポルトガル移民の歌い踊る姿をハワイアンが見て、蚤が跳ねるようだといったからウクレレと呼ぶようになったという説がある)で、マスターのウクレレはまさしく蚤が跳ねるようにどこかに行ってしまったのである。
今回ジェイクさんのウクレレを見て、あんとき買っておけばとまた後悔してしまった。ポロロン、ポロロン、やさしくて癒される音色、自在に弾きながらラガーを飲む…こんな一人の時間、きっとたまらないひとときだと思ったからである。
「ラガー音楽談議」 の取材で訪れた神戸チキンジョージのオーナー児島進さんと、ハナ肇とクレージーキャッツの話になった。「かつてパワーステーションで植木等さんがソロライブをやったときに、自分らもチキンでやりたくて、クレージーキャッツをやるのが夢でした」と児島さん。
児島さんは1960(昭和35)年の生まれだから、クレージーは原体験のなかになる。今では信じられないけど、テレビがやっと家に1台の頃、TV番組「シャボン玉ホリデー」は本当に楽しみにしていた番組だった。(これにうなずいた人、全国で10万人はいると思う。大きくでたよ)
で、マスターは植木等さんに「およびでない、およびでない、こりゃまた失礼いたしました!」のギャグが、どのようにしてできたのか取材したことがあって、そんなことを児島さんに自慢してしまうマスターであった。
「その頃お弟子さんだった小松政夫さんが、植木さんの出番を間違えてしまい、植木さんは、何も疑わず、カメラがまわっているところへ出てしまい、どうも様子が違い、それはとっさに出たフレーズ、生放送だったからね」と。(そのシーンを見ると共演の中尾ミエさんとかが本気で笑っている)
クレージーの話で児島さんと盛り上がるのだが、児島さんは児島さんで「僕は谷啓さんがなんかのドラマの収録しているときに、たまたま友だちが一緒に出ることになって、クレージーキャッツの曲の譜面集を持って行ってサインをもらいました」と言う。「僕も谷啓さんは見かけたことがある」とマスターは返す。このときマスターは急に、そういえばと、博多の夜を思い出すのであった。

それはスナック(飲み放題6000円)でのこと。マスターは20〜30代の女性3名と、初めて会った芸能人は誰か?を話題にしていたところ、長山洋子さん、薬師丸ひろ子さんなどの名が元気にあがった。「わぁ凄い、綺麗だったでしょう!」マスターは負けじと「范文雀さん、青山で」でドーダ!したのだが、ジェネレーションギャップか反応はワザトラの受けで、いまひとつだった。「わたし、井出らっきょさんなんです」と20代の女性がなぜか申し訳なさそうに言う。誰もが実際見たことのある芸能人の思い出は忘れないみたいだ。
児島さんと別れ、新神戸駅から新幹線に乗る。ラガーを飲みながら、そういえば児島さんはチキンジョージにこれまで出演したアーティストにお会いしているわけで、マスターはそんなお方を相手に何で気負ったのか反省する。そして、マスターは、オヤジ世代は「ドーダ!」自慢が多いのではないかと思った。これが「凄いですね、さすがですね」なんて受けたときのビールの旨いこと、旨いこと。御同輩いかがですか? でも本当は「およびでない、およびでない、こりゃまた失礼いたしました!」だったりして。
「MUSIC MAN」にご登場いただいた立川直樹さん。マスターは、とある雑誌で立川さんの担当編集者だったことがあり、かれこれ28年も前のことになるのだが、打ち合わせをしに六本木にあった『東風』(トンフー)に通ったものだ。
「ミック(立川さんのニックネーム)、次回はフレンチ・ポップスをテーマに何かお願いしたいんですけど」「わかった、考えておくよ」「締め切りは、来週なんですけど」「いいよ、ところで今日はどこへ行こうか」いつもこんな感じだった。打ち合わせは3分で終わり、その後新しくできたBARなどに連れて行ってもらい、「次、何をやろうか?」などと、まずはビールを飲みながらいろいろな話が始まる。音楽のことはもちろん、プロレス、料理、映画、女性、海外のとある街のこと、ホテルのことなどなど、いつも雑談のなかから次の企画が生まれた(企画会議だなんて思ったこともない)。で、BARで流れている音楽に対して突然「この時間で、こんな雰囲気だったら、この音楽はないよな、変えてもらう」と、お店の人(知り合い)に、ささっと話す。サントラ人生なのである。
そういえば、かつて立川さんがプロデュースなさっていた日本のとある女性シンガーをマスターはインタビュー取材したことがあるのだが、インタビュー時間を1時間いただいたのにもかかわらず、30分で帰ってきたことがある。
今、思い出すだけで冷や汗たらりなのだが、そのシンガーはマスターにとって子どもの頃からの憧れのお方で、さぁインタビュースタート、お顔を拝見、目が合ったとたん、何もかも忘れてしまったのである。人はこれを真っ白状態というが、マスターは凄くアガッてしまったのである。用意した質問事項も棒読み。「ヤバいぞ、オレ、アガッている」と自覚すると、さらにどうしていいかわからなくなり、ノートの質問を、まくしたてるように早く読んでしまう。目が合うと、視線をそらしたりして、その視線は宙をさまよい続けるのであった。そうして、どんどん小さくなっていく自分。マスターこれで自滅しちゃったのである。

「ありがとうございました」シンガーも同行のマネージャーさんも「こいつアガっている、おかしい、変、ダメなヤツ、田舎帰れ」とこちらを見る。マスターの同行のカメラマンも不安げにこちらを見る(撮影は終わっていた)。逃げるように帰ってきました。編集部に戻り上司から「どうだった?」「ばっちりでした」「そうか」「はい」となんとか原稿は仕上げたのですが、出来上がった誌面を見ると、そのシンガーの写真の顔が「あなた、アガっていたでしょう」って言っているようで、つらいものがあります。
その後、その誌面を読んでくれた立川さんが「あれ、よかったよ」って。これまた冷や汗たらり。
今年になって立川さんとは数回お会いしておりますが、久しぶりに先日広島で飲みました。キリンラガーを数杯。なぜか、何度お会いしても立川さんの前では、そのシンガーのことを思い出してしまい、ビールもちょっとほろ苦いんでございます。
「探訪ノート」にご登場いただいた八島順一さんとは何度となくお酒の席を一緒にさせていただいている。もうかれこれ40年ほどの付き合いになるのだが、彼の高校生のときのファッションを突然思い出してしまった。それは冬の頃の黒のダッフルコートにホワイトジーンズ、靴は確かデザートブーツだったと思う。何となくアイビーファッションで、ギターケースをかかえロック喫茶に出かけて行った。
中学のときからまわりのみんなは、八島さんは将来必ずミュージシャンになると思っていた。それはとにかく誰もかなわないほどギターが上手で、マスターなんかもギターをやっていたが、八島さんがボブ・ディランの曲をハーモニカを吹きながら演奏したのを見たとき、Aマイナーだ、Cだ、Fだとやっとこさ弾けるようになった自分自身の自信が根底から崩れ落ち、これはどんなことをしてもかなわないと思った。お前はもうギターをやめなさいという天の声が聞こえてきたのだ。(やめといてよかった!)
プロになる人って何か生まれもっているものがある。それから即興で作詞作曲するのも見ていたぞ。誰か仲間が「やっさん、何かオリジナルやってよ」と言うと、すぐに「まったく知らない男のブルース」などと言い、ギターでの弾き語りを始めた。とにかくそこにいた仲間たちはスゲェーと思いながら黙って聴いていたのである。ここでもマスターは音楽の道には進まない方がいいと再び天の声を聞いたのである。こういうことは中学で野球部に入り、小学生のときまでは将来はプロ野球選手になりたい、自分ならなれるはずだと思っていたのが、入部1日目で凄くうまい先輩なんかの守備を見ただけで「あはははは」っと薄ら笑いをしながら諦めるのと一緒であります。みなさんもこういった経験ありませんか?
さてさて八島さんと70年代当時のラジオの深夜放送の話になったんだけど、中学の頃はトランジスタラジオが宝ものだった。お弁当缶ぐらいのサイズで、夜は受験勉強などといいながら遅くまで聞いたものです。ロック、ポップス、映画音楽、そして歌謡曲が流れ、マスターが特に覚えているのはフランシス・レイの『白い恋人たち』がラジオから流れたとき「世の中には何といい音楽があるんだろう!」と興奮したものだ。大人になったらこういう曲が流れるなか女性と交際してみたい、しかしそんな大それたことは自分にはできるのだろうか?と少年の苦悩は始まるのであった。誰かが映画『スタンド・バイ・ミー』について言っていたけど、男は中学2年ぐらいまで女性を意識せず、それ以降はずっと女性を意識して生き続けるそうだ。わかるなぁ、マスターが『白い恋人たち』を聴いたのは中学3年のことで、もう始まっていたんですね終わりのない苦悩が。

ところで八島さんと飲んだその夜、まずはキリンラガーの生で乾杯。一口飲むと「クーッ」と身体に染み渡る余韻にもだえ、「何でこんなにビールって旨いんだ! これと同じこと全国で20万人ぐらいは言っているよね」などと話す。その後共通の友人に電話するとカラオケで盛り上がっていました。また、なぜか共通の他の友人から今度は電話があり、これまた飲み会をやっていた。もはや苦悩のかけらもない友人たちであった。
「音楽談議」の取材で、神戸の『POLO DOG』のオーナー蔭山秀樹さんと話をしていて、音楽が好きになるきっかけも年代ごとに、やはりこれだというエポックがあるのだと痛感いたしました。蔭山さんは35歳でマスターとは18歳違う。前回のラガー音楽談議でお伺いした広島のバー『冒険王』のオーナー河野“ドラゴン”栄蔵さん(32歳)も言っていたが、DJ小林克也さんのテレビ番組「ベストヒットUSA」は、現在30〜40代の人たちにとってかなり影響を与えているのだ。それはやっぱり小林克也さんという存在感が大きい。
マスターの50代前半はなんといっても「ウッドストック・ミュージック・アンド・アートフェア[1969(昭和43)年]」という人が多い。これはライブがすぐに映画化され、行けなかった多くの日本の若者は劇場でその興奮を味わったのである。
35歳になる蔭山さんは「ウィ・アー・ザ・ワールド」でブルース・スプリングスティーンやスティーヴィー・ワンダー、マイケル・ジャクソンを知る。これが12歳のときだから、マスターの世代にしたらテレビの11PM(1965〜90年まで続いた深夜番組)でビートルズ来日を取り上げたのを見たのと同じような驚きだったろう。
ところで「ウィ・アー・ザ・ワールド」のとき、マスターは30歳であった。この年は阪神タイガースのトラフィーバー、21年ぶりに優勝した年だ。それから高校野球では清原和博選手と桑田真澄選手のPL学園が優勝した年でもある。いやぁ、マスターは昔のことはよく覚えている。ただ昨日とか一昨日のお昼に何を食べたかなどはあいまいだ。ま、それはいいとして今回つくづく思ったのは年代感の違いっていうやつで、若い世代から初めて聞いてみて、あなたたちはそんな風に感じたんだと、なるほどと感心してしまう。(例えばマスターなんかの世代だとスティーヴィー・ワンダーだとすぐに「迷信」でディスコで踊ったことを思い出すが、蔭山さん世代だと「ウィ・アー・ザ・ワールド」で凄い人だと知る、となる)、ここであらためて時代を超えたスティーヴィー・ワンダーって偉大だと再認識してしまう。

で、話はまた野球になるが、1985(昭和60)年の甲子園の優勝投手となった桑田真澄さんは今年40歳で引退。野茂英雄さんも同じく40歳で引退。現役の勇姿、その奮闘する姿はいまだ瞼に焼き付いておりますが、彼らもまた時代を超えたスーパースターだ。野茂英雄さんがドジャースで初勝利をあげたとき、また桑田真澄さんがパイレーツで初めてメジャーのマウンドに立ったとき、マスターはテレビのニュースからだけど「ウィ・アー・ザ・ワールド」級の感激を覚えた。そんなときには必ずラガーを飲んでいるのでありました。
ムーンライダーズのアルバム『カメラ=万年筆』がリリースされたのは1980(昭和55)年のこと。マスターはこのレコードを原宿にあったカフェ・バー(80年はカフェ・バーという呼び方はまだされていなかった)のような店で手にした。ゾクゾクっときたことを昨日のことのように覚えている。
その店は知り合いたちの溜まり場だった。そこには「探訪ノート」にご登場いただいた鈴木慶一さんやムーンライダーズのメンバーたちもやってきて、他にはコピーライターやイラストレーター、カメラマン、雑誌の編集者、ライター、スタイリスト、ミュージシャンなどが集った。店内の中央にある大きなテーブル席に誰かがいて、そこに1人、2人、と集まり、気がつけば7〜8人になっていた。『カメラ=万年筆』はそこに来ていたカメラマンがカヴァーの撮影をしていた。
今回久しぶりにお会いした鈴木慶一さんと、その頃の話になったのだが、慶一さんは開口一番に「随分老けたね」とマスターに言うのであった。28年もの月日が流れ、当時20代だったからしてまったくその通りなのだが、面と向かって言われると月日の経つのが何と早いことかと“しみじみ”としてしまう。
「あの頃は、携帯電話もパソコンもなかったんだよね」と慶一さん。ここでマスターは「溜まり場=パソコン」といった図式が浮かぶ。と、いうのは溜まり場でみんなでそれこそ新しく出たレコードのことや、気になる映画や本、ファッションなどなどいろんなことを話していたのだ。激論を交わすということはなかったが、なんとなくそれぞれ得意分野があって、やたらモノに詳しい友人がアメ横で探して来たペンなどを見せてくれたり、ボールペンで字を書くとヘタに見えるのはなぜかなど話し合った。また、携帯電話はないので、そのお店に呼び出しの電話がかかってきたりしたものだ。
そういえば、その頃、宮崎美子さんが木陰でTシャツとGパンをはにかみながら脱いでビキニ姿になるという『いまのキミはピカピカに光って』のTVCMが話題で、これも慶一さんが作曲していた。

マスターは慶一さんと別れた後に、仕事場へ戻り一休み。当時の雑誌なんかをペラリする。しかし「ひとり=つまらない」である。これは幾つになっても変わらない。溜まり場が懐かしい。
夏の夕方、空はまだ明るくて、雲もゆっくり動いている。(しみじみした思いをひきずっているマスター)そうだ! 後輩を誘って焼き肉屋へ行こうとなる。冷えたラガーも待っている。カルビをサンチュに巻いて(ちょっと辛い味噌なんかつけてね)、そしてビールと考えるともうダメ。さぁ、夏は元気出していきましょう!
今回「MUSIC MAN」にご登場の加藤和彦さんとマスターは、80年代の頭にマイアミへ行ったことがある。それはある雑誌の取材でのことで、当時マイアミのホテルはアールデコ様式の美しいところが多かった。いくつか見て回ったのだが、そのホテルは老人の長期滞在者の多いところで、アメリカが凄いと思ったのは、長期滞在者用にポピュラー・ミュージックの大御所たちがコンサートにやってくるということ。そんなことに感激しつつも、取材を終えると、加藤さんはテニスをやっていた。その頃は旅先にテニス・ラケット持参するぐらいはまっていて、もちろんテニス・ウェアからシューズまで完璧でないわけがない。
加藤さんは雑誌『POPEYE』でアメリカの西海岸ブームを伝える前にすでにLA的なファッションをしていた。それはアルバム『それから先のことは』[1976(昭和51)年]のカヴァーを見れば歴然なんだけど。
で、そのマイアミで取材から戻り、ホテルでテニスをすることになった。ホテルのコートを係員に申し込むと、今日は好きなだけいくらやってもいいという。どのコートを使ってもいいし、君たちの自由だと。もちろん無料だと言われたのである。コートには誰もいない。どういう訳で係員がそんなことを言ったのか、そのときは考えもせず、ただただラッキーと思ってコートへ出て、パコンパコン(昔はテニスの擬音はこうだった)と始めた。到底加藤さんにかなうはずもなく、それでも果敢に打ち返すと、どっか飛んでいったりして、それは風のせいだと決めつけた。風が段々と強くなり、髪型が変化するぐらい(七三が一九ぐらいになる)だったのだ。
加藤さんは「もうやめよう」と。で、ホテルに戻ると、なんと台風が来ていることを知る。係員は、台風が来ていることを知っていて大盤振る舞いでコートを貸してくれたのであった。何かつまらなく、食事に行くまで加藤さんの部屋でビールでも飲もうということになり、加藤さんはテニス・シューズからデッキ・シューズに履き替えた。すると、デッキ・シューズの紐の長さがいまいち気に入らないということでホテルからハサミを借りて、少しずつ調整していたが、ちょっと短く切りすぎてしまったのである。

その後、そんなことは忘れてキューバ街へ食事に行った。食事なら加藤さんがいれば安心。加藤さんは流暢な英語でメニューを見ながら、ここからここまでとオーダーするのであった。(つまり料理名ではなく、メニューの上から下まで10センチ分ぐらい頼んだ)
マイアミはこんな楽しい思い出ばかりなのだが、デッキ・シューズはどうなったかというと、加藤さん翌日めちゃ高いリザードのローファーを履いていました。ホテルのブティックにお気に入りを見つけたとかで、なんかやっぱり雲の上にいる人なんですよね、加藤さんって。
取材でお会いして、おいしいビールの話となったが、小瓶を氷でざっくり冷やして白ワインのように飲んだそう。これからの季節、一人で本なんか読みながら庭の木陰でそうしたいですね。台風のこないうちに。
「ラガー音楽談議」の取材で訪れた広島市中区流町にある「バー冒険王」で久しぶりにバン・マッコイの『ハッスル』を聴いた。マスターは当時のディスコを思い出してしまった。1975(昭和50)年頃がブーム絶頂だったような気がする。マスターは当時大きいディスコへ行くには、まずは小さいディスコで練習してからという友人の誘いで、赤坂にあった<フランス乞食>というところへ通った。
プロ野球で言えば2軍でみっちり自主練習してから1軍へ、という感じですね。そこはまず正面に大きなガラスがあって2軍選手たちは、おおよそ15名ぐらいが横一列になり全員カガミに向かう。その列の後ろに、段々と並列に並びながら踊る人たちが40名ぐらいいる。曲は『ハッスル』『ザッツ・ザ・ウェイ』『アイ・シャット・シェリフ』『ゲット・レディ』などが流れ、2軍選手たちはカガミを見ながら、例えば『ザッツ・ザ・ウェイ』ならば、船を漕ぐように踊るのである。両手でオールを漕ぐように踊るのである。これを踊りといっていいのだろうか?と疑問を持ちながら踊るのである。いいのである、みんなそうしているのだから。
あと踊りで覚えているのは、立ってスケートをするような感じでリズムをとり、ある時は手を後ろにしたり、だらりとしたり、またはリズムをとったりしながら、顔は知らんぷりする。ディスコって顔が難しいです。顔力のある人はバランスが悪いというか、硬いというか、笑っていても変で、とにかく知らんぷりがグランプリということになる。(すまん)
で、たっぷり練習したら晴れて1軍昇格。これは同じ赤坂にある<MUGEN><ビブロス>に行くことを意味する。体調バッチリで行くことになる。(家でもレコードを聴いて練習)
このいずれのディスコも外国人が多いのである。ここでマスター、なぜかアガる。外国人と派手な雰囲気に飲まれる。(2軍は外国人なし、雰囲気地味だった)おどおどする。踊っていてもちっとも楽しくないどころか、「なぜ人は踊るのだろうか?」なんていう疑問が持ち上がる。すぐ帰ることになる。即刻2軍落ち。つらいような、どうでもいいような、でも悔しい思いがあり、また<フランス乞食>へ行く。すると、なんか自信がついた自分がいる。だって<MUGEN><ビブロス>へ行ったんだから。こんな感じだったんですね。1軍の壁は厚かった、とだけ申しあげておきましょう。

ところで、今、密かなブームらしいですね。オヤジディスコ、盛り上がっているそうです。マスターは、積極的に行こうと思わないのは、積極的に誘ってくれる人がいないからなんだけど、もし行くとなったら、踊りよりも、どんな顔をしたらいいか迷います。最近知らんぷりもなかなか難しいんです。目に力が入ってしまい、なんでか? 歳をとると顔にエネルギーが貯まるのかしら。
「バー冒険王」で久しぶりに聴いた『ハッスル』、このときはカウンターでラガーを飲みながらね、「あー、あの頃は…」なんてじみじみしながら、こういう方が今はいいな。ちょっとしゃべり過ぎてしまうけどね。(しゃべり過ぎるのも顔にエネルギー貯まるからか?)河野さん、お世話になりました。
今回「ラガー探訪ノート」に登場いただいた野沢那智さんは大のクラシック音楽ファン。「あんなにレコード買ってなければプール付きの家ぐらい買えた(笑)」と話してくれたのだが、その声があの野沢那智なのである。当り前だけど、初めてお会いして、生のお声を聞けた、それだけでも感激だ。滑舌がいいばかりではなく、きれいなイントネーション。
「クラシックは、あんまり仕事が忙しいんでヤケクソになってフラストレーションを解消するために聴いたんですね」と相当つぎ込んだらしいのだが、つぎ込んだもののなかでもレコードは小さいほうで、もっともっともっと大きいのがある。
実は野沢さん、25歳で劇団薔薇座を設立し以来劇団運営のため、いろいろと赤字を出して借金を作る。その返済のために声優業を始めたとも言われている。
野沢さんが映画『ダイ・ハード』のブルース・ウィルスの吹き替えをしていることは皆さんご存知かと思いますが、野沢さん、この仕事の依頼があったとき「なぜ、自分か?と。この痩せた身体、細い首、ブルース・ウィルスとは体格が違う。しかもどちらかといったら僕は高音なのに」と。
で、ディレクターの方に聞いたそうだ。すると「いや、そういうことでキャスティングしていません。僕は、あなたがこれまでやってきた薔薇座の芝居は全部観ています。アトリエ公演まで足を運んでいます。あなたはよせばいいのに、まだ29歳かそこいらで3階建ての稽古場を建てて、赤字出して、血みどろになりながら借金返して、利益を度外視してまでも芝居をやって、それなりに新人を送り込んで、あなた自身の精神構造がそれこそダイ・ハードじゃないですか」なのであった。
つまり、とんでもないシチュエーションに何度も何度も放りこまれ、あきらめないで頑張らなくちゃならないっていう気持ちが、野沢さんならわかるということでのキャスティングだったのだ。

何か凄く職人的なモノを作る人たちのいいお話なんだけど、野沢さんはダイ・ハード的な人生を送ってきたということでもあるわけで、マスターは野沢さんのお話を聞いてつくづく、いつも前向きに、自分の道をいかなくちゃと思いましたね。つまりちょっとしたことでめげないで、元気だして、どんなことでもくぐり抜けなくちゃイカンと。世の中にはいい言葉がありますよね。「失敗は成功のもと」。それから「借金も財産のうち」とはよくいったもの。
今夜も、まずはおいしいラガーを飲もうではありませんか! この一杯がどれだけ楽しみをもたらしてくれているか。さぁ夏だぞ御同輩! ますますビールの美味しい季節ではあ〜りませんか!
「MUSIC MAN」にご登場いただいた高橋幸宏さんは56歳。新しいバンド「pupa」ではもちろん最年長なんだけど、今回のアルバム『floating pupa』を聴いてみて、マスターは幸宏さんの歌う「Creaks」という曲が好きですね。本場スコットランドから取り寄せたというエレクトリック・バグパイプが心地よくってメロディも懐かしいブリティッシュ風の味付けがあって、やっぱり幸宏さんならではのキャリアを感じてしまいます。これは幸宏さんから聞いたんだけど、エレクトリック・バグパイプは原田知世さんが弾いているそうです。なんか嬉しくなっちゃう。で、アルバムを聴いていて思ったのは、本当にみんなで好きなことをやって(放課後にバンド活動している仲間たち)、それは気分よろしの仕上がり。
最近なんかいい曲ないかねと探しているオジさんがいたらおすすめ。それと「もう一つ教えて!」と言われたらThe Fratellisのアルバム『Here We Stand』も。(これ先日とあるバーで流れていて、お店の方に教えてもらって購入)
さて、幸宏さんの話に戻りますが、マスターは21歳のときに初めてお会いして以来ですから32年前のことで、以降、取材でも友人の飲み会でも何度もお会いしているのですが、“あれ”以来、いつお会いしても緊張するのです。
“あれ”を説明する前に、マスターがロンドンからパンクの格好をして帰ってきたとき(78年)に幸宏さんにこれ見よがしに着ているもの(ヴィヴィアンとか)を見せに行ったら「えっ、パンクって靴下はマンシングなの?」と言われたんですね。マスター、そのときに限ってなぜか靴下がマンシングのワンポントが入った白い靴下だったのです。で、そのときは笑ってごまかすぐらいの余裕がありましたが…。

で、80年に入りニューヨークへ行ったときに、ソーホーのロフトの本屋とかレコード屋とか小さなショップなんかを見ていると、いろんなところでY.M.Oのポストカードがウォホールやマティスの絵はがきなんかと一緒に並んでいたのです。ジャーン!Y.M.O世界制覇! 幸宏さんはついに大変な人になってしまったんだと。これって僕らがかつてスゲェーって感じた外国のミュージャンってことを逆に外国の人たちが思っているわけでしょ。このときのインパクトが強力だったものですから、あれ以来、どうしても硬くなってしまうのであります。
でも、幸宏さんは以前と全然変わらず、飲み会の席ではいつも美味しそうにビールを飲み、気さくに話してくれるのですが、マスターは変なこと言わないように、言わないようにとビールを飲み、そのうち大事なときになぜかよそ見なんかしてしまっているんですね。ダメだな、オレって(幸宏さんだけじゃないよ、と天の声あり。強く反省)。
マスターもこれだけいろいろなロック好きにお会いしていると、ファッションからもその人がどのくらいのロック好きかが見えてくるのであった。
まずですね、ライブ関係者にはなぜかスリムな人(古いかな?スリム)が多い。そしてジーンズの方が多いのですが、これがブルーデニムじゃなくてブラック系のものをはいていて、身のこなしが早いんですね。(系というのは限りなく黒に近いグレーも含む。)それも細身のタイプで、これが動きやすいのか、とにかく身のこなしが早い。次にTシャツの着こなしも、そこに若かりし頃の感じがにじみでている。これらをひっくるめてロック好きは太っちゃいけないんだっていう現場からのメッセージにも思えます。
一般的にオジサンになってきますと、Tシャツって下着の延長みたいな方が割と多いのですが、ロック好きは何かかしらのこだわりというか、一般とはちょっと違い、これはずっとロックを聴き続けているからこその風格なんでしょうか? 今回「ラガー音楽談義」の取材でおじゃました広島の「LIVE CAFE JIVE」の河村真作さんにも感じました。
ちょっと話がそれますが、かつて袖が7分で身頃と袖が色違いっていうカラフルなロックTシャツがありましたね。野球のアンダーシャツみたいなやつで、これは胸のところにロック・アーティトのレコードジャケットなんかがプリントされていて、レコードを買うと当たったり、またプロモーション用の宣材だったりしました。(今、こういうのにプレミアがついてお宝になっているらしい)
で、当時、社会人になって下着代わりにこういうのを着て、その上にYシャツを着てネクタイを締めると、中のカラフルTシャツの胸のところにあるバンドのロゴなんかが透けて見え、これは相当注目されました。見覚えありますか? 背中に絵柄っていう人もいましたね。

話を戻しまして河村さん、やっぱり音楽を聴き続けている人って雰囲気が、どこか違う。誰が言ったか忘れましたけど、本を読み続けている人と、まったくそうじゃない人って顔が違うってのを聞いたとき、マスターはすぐに本屋に駆け込みました。顔って何かが出るんですね。やっぱり顔は自分が作るもの。河村さんはロックで作られた顔、マスターは、冗談好きが高じてこんな顔になったのか。(最近読書していますけど)今夜は読みかけの「知らざれる魯山人」(著:山田和/文藝春秋)をじっくりいきますよ。この本に魯山人ってキリンビールの小びんをよく飲んだっていうのが書かれていて、マスターはそれに影響され最近ラガーをグラスに注いで飲んでいます。
マスターがロンドンにいた頃に、今回「ラガー探訪ノート」の取材でお会いした伊藤政則さんが遊びにきたことがある。1977(昭和52)年のことだから、もう30年も前の話になる。そのときにロンドンから電車に乗ってリーズという街へコンサートを一緒に観に行った。これがマスターの記憶だとキャメルなんだが、伊藤さんはイエスじゃなかったか?という。そう言われるとこちらも自信がなくなるのだが、その夜コンサートを終えると電車を乗り継ぎながらロンドンに夜中に戻った。
で、フラットまで帰るにはタクシーしかなく、ビクトリア・ステーションでわずかな人の列にならんでいると、僕たちの目の前にやたらモコモコとふくらんだ綿入れみたいなジャンパーを来ている金髪の若者がいて、背中には大きなリュックサックを背負っていた。
僕らはそんな格好をしている若者は初めて見たのであった。「どこから来たのですか?」と質問した。すると「カリフォルニア」という返事だった。モコモコのジャンパーはダウン・ジャケットで、リュックサックはバック・パックである。すでに77年はそういったヘビー・デューティなファッションの動きが始まっていた。
日本では1976(昭和51)年に雑誌POPEYEが創刊され、また前年にメイド・イン・U.S.Aカタログも発売されていたから、そう驚くことではないのだが、僕たちにとっては本物を初めて見たこととなった。
伊藤さんは「カリフォルニアか、カッコいいねぇ」と言った。当時伊藤さんは相変わらずマキシコート、ベルボトム、そしてロンドンブーツ、マスターはパンクもどき。二人は相当変な日本人だった。
それから伊藤さんはマスターのアパートに何日か泊まり、ある夜ネズミが出てきたとき、寝ていた伊藤さんは飛び起きたのであった。マスターにとってネズミは初めてではなかったが、伊藤さんは顔面蒼白に驚き、その様子を見たマスターはこんなにたっぷり驚く人も世の中にはいるんだと驚いたのである。誰しも苦手なものがあるが、凄く小さなネズミだったのだが…。

さて今回は再会を祝しビールと焼肉で昔話に花が咲いた。「オレたちあんときジャムも観てんだよね」と伊藤さん、「そうそうジャムのファンの女のコたちって可愛らしいパンクだったよね。しかし、ポール・ウェラーは凄いね」と。「ところで政則さん、ラジオの番組の選曲ってどうしているんですか?」「黙ってオレについて来いって感じかな。かけたいときが、かけたいときなんだよ。つなぎがうまくいったときなんか全国で5人は泣いているだろうね。ウマっ!この焼き肉。海外のミュージュシャンたちって日本の焼き肉喜ぶんだよね」。なぜか、ビールで焼き肉はどんどん元気が出てくる。やがて今でも大事に持っている2足のロンドンブーツの話になり、ロンドンブーツで何度か転んだ話になり、やっぱり政則さんって面白い。笑い転げながら、一緒にラガーをおいしくいただきました。
グループ・サウンズがいちばん凄かったのは1968年(昭和43年)だったと思う。タイガース「君だけに愛を」「花の首飾り」、テンプターズ「神様お願い」「エメラルドの伝説」の大ヒットで、マスターはこの頃中学1年生だったが、クラスの女のコたちの大半はGSのスターたちにキャァ!であり、ステキ!であり、お気に入りの王子さまたちの平凡や明星の切り抜きなんかを集めて交換しているコたちがいた。
僕のまわりの中1少年たちはタイガースやテンプターズ、オックスなんかは女のコたちのものという感じがしていた。(中1の男はまだまだガキンチョで、そういった女のコに立ち入ることすらできないでいた)
その点、スパイダースは男のコたちに人気があった。何といっても堺正章さんと井上順さんが面白く、その後の楽曲で「エレクトリックおばあちゃん」なんか知っているとクラスで人気者になれた。
当時ムッシュかまやつさんの存在はもちろん知っていたが、高校のときに音楽通の友人が「フォークとロックのステージに立てるのはかまやつさんだけだ」と言ったのを今でも覚えている。それは1970年初期、フォークのコンサートにロックががったミュージシャンが出るとお客は「帰れ!」と叫び、そこにはある一線があったのだ。そういう情報を友人はどこで仕入れたかは不明だが、かまやつさんだけは違う存在感だったのだ。
その後、TV「時間ですよ」に出て、蒲田さんことかまやつさんが登場するのを楽しみにしていた。のちの吉田拓郎さんとのデュエット「シンシア」のヒットは記憶に新しい。我々世代のアイドル、南沙織さんのことを歌っていた。また、「ペニーレインでバーボン」が流行っていた頃、原宿にあったバー、ペニーレインへ行ったもんです。そして、「我が良き友よ」が大ヒットしたときマスターは20歳になっていた。後からムッシュ本人からお伺いしたのだが、あれは吉田拓郎さんが大学の先輩の応援団長をモデルにして作ったものらしい。

ちょっと記憶は定かではないが、1985年に渋谷のパルコ劇場でムッシュのコンサートを見ている。取材だったと思うのだが、コンサート後に楽屋でお話を聞いている。そのときが初めてで、子どものときの大スター、こちらは緊張感あふれてしどろもどろだったが、とても紳士的な人だった。あれから20年以上経つが、いつお会いしても変わらないのである。マスターは「MUSIC MAN」の取材でムッシュにお会いした後に「あの時君は若かった」なんて口ずさんでしまったのだが、そんな目一杯緊張したあとは喉も渇き、ラガーがほっとした体にしみるのであります。
「ラガー音楽談議」の取材で名古屋のジャズバー「jazz inn LOVELY」のオーナー河合勝彦さんにお会いした。1944年(昭和19年)のお生まれだから、今年64歳。この好きな道一筋45年という凄さに頭がさがるのだが、お話を伺っているうちにマスターは自分のジャズ喫茶体験を思い出していた。
河合さんたちの青春時代はアイビーブーム(昭和39年頃)の第一期世代で、マスター世代は第二期になる。(昭和48年頃)で、アイビー・ファッションの若者たちがジャズ喫茶へ行くというのは、第一世代も第二世代にも共通することなのである。それはアメリカかぶれということにつきるのだが、例えばプルオーバーのボタンダウン・シャツにコットンパンツ(ベルトは2色のリボンベルト、靴はコインローファー)のいでたちは、やっぱりジャズ喫茶に似合った。ちょっと薄暗い木目調の店内、そこに飾られたジャズのレコードジャケット、なぜか古い柱時計などもあり、そんなところでちょっと分厚いマグカップなんかでコーヒーを飲むといい感じになったもんです。
そういえばジャズ喫茶は話をしてはいけないという暗黙の決まりがあった。誰もが黙って、なかには目を閉じて聴き入る者もいた。僕はジャズをわかって、只今凄くいいところなのだという感じで体を揺らす者もいた。もちろんアイビー・ファッションじゃない男もいた。これまでマスターが見たなかで忘れない男がいる。そのジャズ喫茶は店内に大きなテーブルがどーんとあって中央に山のような大きなロウソクが置かれていた。これまで燃やしたロウソクがたれてたれて山になっていた。その目の前でその男はオツな感じでノっていた。大学を受験し続け三浪ぐらいの風格があった。髪型はアフロともいえるが、大きくふくらんだモジャモジャ系。この男、目を閉じ、体を揺らしているうちにロウソクの火が髪につき、つまり髪が燃えだしたのである。もちろんあわてて消していたが、マスターは笑うことなく、他の客も見てみぬふりをしながらジャズに聴き入っていたのである。とにかく無駄口たたくと客からニラまれたんだから。

思い出話が長過ぎて申し訳ないが、さてさて実は河合さんからいい話を聞いたのである。
「ジャズをこれから聴こうという40代、50代のおじさんは、ジャズをどうやって覚えたらいいのでしょうか?」と質問してみたのだ。
すると「オムニバスのCDを買って聴けばいいんじゃないかな。そのなかから絶対何か好きになるはず。いろいろ聴いて、おもしろいなっと思った物をセレクトしていったらいいと思う」であった。
オヤジ連中のあいだで、アイビー・ファッションがきている今日このごろ、たまには洋服でも買いに行って、レコード・ショップ(今、なんていえばいいの?)をのぞいてみて、家に帰って冷えたラガーでも飲みながら買ったものを開けてみる楽しさを味わってみてはいかがでしょうか。気分はもう夏、なんちゃって、おじさん。
「ラガー探訪ノート」にご登場いただいた福岡ユタカさんとお会いするのは、これがなんとマスターは25年ぶりのことであった。
新宿のツバキハウスにPINKが登場し、話題になって、そこの増田さんという当時の支配人を通して紹介された。当時マスター28歳、その年はYMOが散解して、僕のテクノカット(当時流行したうなじをかりあげ、もみあげを切った髪型です)をどうしてくれるんだ…なんて思っていた時期だ。また、カフェバーが乱立した年です。そういえば僕も福岡さんを青山3丁目にあったカフェバーに誘い、「水の都」という楽曲の作詞について話し合ったことがあった。そのとき確か、映画「チンピラ」の主題曲を福岡さんが担当していた。当時から作曲を手がけ、忙しそうだった。人の話をよく聞いてくれる人(マスターはあまり聞かない)で、音を作るのが好きな真っすぐな人といったピュアなイメージが強い。
突然ですみませんが、そのカフェバーは、なんかみんなで気取っていたぞ。目新しかった英国製のリファイル手帳をこれ見よがしにテーブルの上に置いて、全身黒っぽいコーディネートで「コピーライターってさぁ」とかホイチョイ・プロダクションの「見栄講座」を話題にし、僕ってギョウカイなのよねといった感じの人が多かった。お店の人はインカムをしていたが、あれもファッションだったのだろうか。
さて月日は流れ、マスターが福岡さんを突然TVで見たのが2000年(平成12年)テレ朝のニュースステーション。久しぶりにあの雄叫びを聴いたのである。マスターはこのとき「あー、やっぱり好きな道に行ったんだな」と。
久しぶりにお会いして、意外だったのは「池波正太郎の世界が好きで江戸前を楽しんでいる」ということであった。PINKのころからお付き合いしていた奥さんが江戸っこで、その影響が強いのだろうか。行きつけの人形町の「太田鮨」のカウンターでキリンラガーを飲み、鮨をいただく。再会のビールは旨い。彼がこれまで旅した東南アジア、アフリカなどの話を。世界の様々な音楽を追い求めて、昆虫採集ならぬ音楽採集の楽しさを語ってくれた。

福岡さんが旅先で集めた楽器を、今度見せてもらう約束をし、別れた。マスターは帰り道に「NS2000」のメロディを、「アイヤーコラサーなんじゃらホー」と思い出すのだが、やっぱりあれを歌えるのは本人だけじゃないかと思った。しかし、あの雄叫びはどこからやってくるのだろうか?
マスターも何か叫びたくなってきた。メヘェヘェヘェー!(子どもの頃からやっている山羊の鳴き声でした。最近は娘も聞いてくれない)
最近、女性にモテるというか、女性がほっとかない男性というのが、マスター52歳にしてようやく分かってきた。異論のある方、どんとぶっかってきてください。ここではイケメンがどうのこうのではなく、また年齢(若さ)に関係なく、小さい頃の経験とその資質で決まる。今回、「MUSIC MAN」の取材で村上“ポンタ”秀一さんにお会いして、それはますますそう思った。
マスターが尊敬してやまない60代の絵描きさんと作家さんがいて、このお二方を例にあげて三段論法でいってみよう。
まず、凄くモテるのは絵描きさんの先輩で、あまりおモテにならないのが作家さんの先輩だ。
モテる先輩は、小さいときから女性に囲まれて育った。お姉さん、おばあさん、女性に囲まれて育ち、いつも男は自分だけという状態で遊んでもらっていた。とにかくなんとか“ごっこ”が茶飯事で、お医者さんごっこなどウエルカム、男ひとりだから年上の女のコからは可愛がられ、遊ばれるのが嫌じゃない。
女性に囲まれて遊んでいるうちに、女性のふところに飛びこんでいくことを自然と身につける。例えば、お姉さんの喜ぶ顔や怒った顔を一度インプットすると、そのコが何が好きで何が嫌いかが分かり、甘えることも知り上手につき合えるようになってゆく。つまり、1)モテる男の基盤=小さいときから女性に囲まれていた。2)女性のふところに飛びこむことが自然と身に付いた男=モテる男になっていく。3)女性のふところにとびこめる男=小さい頃から女性に囲まれていた。(我ながら、見事な三段論法だ)
片やモテない先輩は、小さいときから男系社会。いつも男の友達と山へ行き、こちらは同じごっこでもターザンごっこ、泥だらけになって遊び、日暮れまで家に寄り付こうともしない。男ばかりだから、誰がケンカが強いとか、自分は間違っていないとかにこだわる。甘えることなど許されない。女性に囲まれたことがないから、どうしていいかわからない。(もちろん、その後分かるが、経験が違う)

すると、1)モテない男の基盤=小さいときから男系社会だった。2)女性のふところは分からない=モテない男の基盤ができた。3)ふところに飛び込めない=女性に囲まれたことがない。
で、ポンタさんは、京都祇園に4歳まで育ち、舞子さんなんかと遊んでいたという。1)ポンタさん=小さいときから舞子さんと遊んでいた。嫌じゃなかった。2)ふところに飛び込む=ポンタさん日常茶飯事だった。3)ふところ=日常茶飯事だった。
どうだろう、今回は難解ホークスだったろうか? ラガーでも飲みながら、もう一度読み返してください。ところで“ふところ”って、これが難しいんだ。マスターはこう見えても男系だからさ。ふところって聞くとおふくろのふところを思い出す。お金ばっか使ってすみませんでした。
4月から始まった「ラガー音楽談議」の取材で、名古屋の大須にあるライブハウス「Electric Lady Land」の平野茂平さんを訪ねた。横浜ブリッツなどのコンサートホールは行っているが、ライブハウスそのものを訪れるのは、いつ頃以来か記憶にないほど行っていない。マスターが今まで一番興奮したライブハウスは、ロンドンの「マーキー」で観たストラングラーズのコンサート・ステージだった。1977年秋のことだが、このときは演奏が始まるや否や、満員の観客がジャンピングを繰り返し、それはそれはエネルギーに満ちあふれていた。パンクファッションの若者たちを何がそうさせていたのかわからないが、ストラングラーズにしてもジェネレーションX、シャム69にしても、集まる若者たちはみんなジャンピングし、こちらにぶつかってくるのであった。あやまりもせず、ひたすら夢中になっていた。
僕は残念なことにセックス・ピストルズのコンサートは見られなかった。ロンドンの情報誌「タイムアウト」を丁寧にチェックすると、例えばライブハウス「100クラブ」のスケジュールにXXXなどと出ていると、ピストルズが出るかもしれないなどというガセネタが出回り、行ってみるとそうではなかった。ただシド・ビシャスがキングスロードをふらふらというか、よたよたというかそんな感じで歩いているのを見た事がある。すれ違いざまに見た顔は今でも忘れられない。
そんなことを平野さんと話していたら、79年、80年頃の「Electric Lady Land」でもパンクバンドがよくライブをやったという。「僕は、当時は武闘派だったんでよく喧嘩を止めに入りましたよ(笑)」と話してくれた。マーキーも凄かったけど、Electric Lady Landも、さぞやパワフルだったのであろう。
今、ストラングラーズを聴いてみると、当時は凄くスピーディーに聴こえていたはずなのに、そう感じなくなっている。ただジャンピングしたくはなるが、時代の流れには恐るべきものがある。そんなことをしみじみ感じると、マスターは急に歳をとったような気になる。そういえば、最近人の名前が思い出せなくなっている。

平野さんのお話は面白くて「僕ら、携帯電話の赤外線通信が出来るかどうかで、ひとつ別れるんですよ」と。これは我々50代の同世代で、どれだけ今についていけているかの判断材料のひとつとして話してくれたのだけど、残念! マスターは出来ないのであった。「でも、いまだにiモードが苦手な人も多いですからね」とちょっと慰められましたが…。みなさんはいかがでしょうか?
さて、ストラングラーズなんかを思い出してしまいましたが、当時ライブハウスに入るとまずはビール。ロンドンだとパイントのずっしりとしたグラスに入ったラガーを手に、「今夜はどんなあんばいだんべ」とあたりを見渡し、「おーいたいた、凄いファッションのヤツが」などとコンサートに入るココロの準備をするのでありました。そのときのゾクゾクっとする感じは、カウンター越しに「ビア、ラガー、ワンパイント」なんてオーダーするところから始まっていたのであります。
「ラガー探訪ノート」の取材で、日本のジャズシーンをリードし続けてきたドラマーの古澤良治郎先生にお会いするために、西荻窪にある『やきとり戎』へ行ってきた。
古澤さんはマスターと同郷の仙台出身で10歳上の大先輩。その音楽活動は40年に及ぶ。リー・オスカーとセッションしたアルバム「あのころ/良治郎バンド&リー・オスカー」はつとに有名だけど、上々颱風のアルバムやスタジオジブリの「平成狸合戦ぽんぽこ」のサウンド・トラックのプロデュースをしたり、また役者にトライしたりといろいろ活躍されている。
「最近いちばん楽しいことは何ですか?」とお伺いすると「オレは意外に楽しい(笑)。やっぱり音楽やってっとぎがいよね」という返答であった。(やってっとぎ=やっているとき仙台なまりが懐かしい)。
そして「で、オレ、最高なプレーしたなっていうのまだないね。もっとうまぐなりたいし、よぐやりだい」と語ってくれた。マスターは極めている人って、やっぱり凄いことを言うのだなと感激したのだが、そのとき目の前にやきとり戎の名物料理 “いわしのコロッケ”が運ばれてきた。
これはマスターも何度か食べたことがあり、ころっとしたかなり大きいもので旨いのである。食べたい! 熱々の今、すぐにお箸を入れて、一口食べて、ビールを飲みたいと思った。しかし、郷里の大先輩の前でそれはイカンと。お話が終わるまで、我慢しようと決心する。で、古澤先生のお話もひと区切りして、先生もやきとりをすすめてくれたりして、さぁこれから食べようと思ったときに携帯電話が鳴る。こういうのイヤな予感するでしょ。やっぱりすぐに帰らなくてはいけないこととなる。
やきとり戎の店先では焼き鳥を焼いていて煙モクモク。ビールを美味しそうに飲む年配の方々を尻目に、西荻窪の駅で電車を待っていると無性に“いわしのコロッケ”を食べて、口の中を揚げたてのフライ系独特の油っこさでいっぱいにし(ソースたっぷり)、ビールを飲みたくなった。

電車に乗り、「ワタシはいつその願いがかなうのだろうか?」と新宿へ向かう。「もういわしのコロッケでなくてもいい。アジフライ、イカフライ、串カツ、コロッケ、このどれかにソースたっぷり、串カツだったらカラシを忘れないで、早くビールを飲みたいんだ」と電車を乗り換える。
携帯電話の用件を済まし、早速近所のスーパーでイカフライを買う(これしか残ってなかった)。するとまた携帯が鳴り、それはさっきまでやきとり戎で一緒だったM君であった。「古澤先生と今飲んでおります」と楽しそうで、お店のガヤガヤまで聞こえてきた。またいわしのコロッケが浮かぶ。何と不憫なイカフライ。でも、はやぐのみでぇ(のみでぇ=のみたい)。
「MUSIC MAN」の取材で、キーボード演奏者、アレンジャー、プロデューサーの井上鑑さんに初めてお会いした。そのご活躍ぶりから、子どもの頃からロック少年と想像していたが、さにあらず。六本木の自由劇場や黒テントなどの演劇を見に行ったり、ジャズ喫茶に入り浸ったり、そしてVAN JACKETが好きなアイビー少年だったのである。
井上さんは1953年生まれだからマスターより2歳上の54歳。つまり高校1年のときには高3の先輩ということになる。で、当時1971年(昭和46年)のことを思い浮かべてみれば、映画『小さな恋のメロディー』がブームとなり、マスターの勉強部屋にはビージーズが小粋に流れ、微笑む南沙織のポスターが飾ってあった。尾崎紀世彦の『また逢う日まで』や、ソルティ・シュガーの競馬中継入りの『走れコウタロー』なんかが流行った年だ。雑誌『MEN’S CLUB』を見ては、巻頭にあった街のアイビーリガーたちを参考に、次はレタードカーディガンが欲しいとか、コッパン(当時チノとはまだ言わない)の丈や細さを気にしたものです。メンクラは中盤のページにあった読み物も充実していてイラストレーターの小林泰彦さんの描いたアメリカのジャズマンたちのファッションが印象深い。
で、すっかり高1気分で当時の高3の井上さんを思い浮かべてみると、高校生ながら、青学の大学生(ジャズ研)に家庭教師的な存在でピアノを弾き(大学生から学食でお昼ご飯を御馳走になっていたらしい)、きっと、クルーネックのセーターなんか似合ってと思う。放課後は渋谷駅南口、東急プラザ裏手にあった『オスカー』などのジャズ喫茶へ。井上さんの話によると当時高校生のジャズ・バンドも出演していたらしい(現在、プロで活躍している人も多いとのこと)。
自由劇場、黒テント、チック・コリア、ジャズ喫茶、アイビー、そしてピアノ、このキーワードだけでも井上先輩は相当カッコよかった。
当時のマスターのキーワードはというと、仙台青葉劇場(映画の二番館)、黒ジャケット(初めて買ったJAZZというメーカー、VANより安かった)、チック・タック(漫才の晴乃チック・タック=昭和35年から9年間活動。

「いいじゃなぁーい」で一世を風靡。マスターはお笑い好きだった)、純喫茶(仙台では広い喫茶店は当時そう呼ばれた)もしくは歌声喫茶(当時仙台にはまだあった。ロシア民謡なんかを客がみんなで歌う)、アイビー(ここは同じ)、ボーリング場(アルバイト先、真剣にプロを考えたときもあったがアベレージ133で断念)。
井上先輩とかなり違うが、なんと井上先輩がしていたことで共通のものがあったのである。それは「絞り染め」である。白いTシャツを凧糸で部分的にくるくると絞るように結びダイロンで染めるのだが、これも当時カッコよかったのだ。去年「豚の醤油煮」(味の継承)を作ったときの凧糸の残りがあるので、久しぶりにビールを飲みながらやってみよう。「いいじゃなぁーい」(by 高松しげお)。ぽかぽか陽気の昼下がりにね。「いいじゃなぁーい」連発。知らない人ごめんなさい。
今回、「味の継承」でご紹介した「とんこつ」。鹿児島の名物、豚骨料理である。これは聞くところによると薩摩武士たちが戦場や狩場で作ったのが始まりらしい。マスターも今回は家で作ってみた。豚のあばらの部分を3センチぐらいに切って煮込むのだが、これは4センチでもいい。細かいことをあまり言わないところが豚骨料理では大事だ。あばらのところをガッツガッツと切り、その包丁の手ごたえと音がいい。大きな鍋に放り込むと。豚骨が鍋におちるときのゴロゴロという重量感のある音がまたたまらなくいい感じだ。どんどん盛り上がってくる。
しかし、大根などの具材を入れてほっとしていると、急にゆで卵問題に直面した。実は、マスターは卵が大好きなのである。例えばランチタイム、ハンバーグに目玉焼きがのっかっていると、今日はこれからいいことありそうだとな、と。家で作るラーメンはもちろん、おでんには欠かすことがない。もしもおでんにたまごがなかったら、世の中にこんなことがあっていいのかと悲しい気持ちになる。
で、この豚骨料理にもゆで卵を入れて思う存分煮込みたいと思ったのだ。つるりんとゆであがったムキムキのゆで卵を一緒に煮込んでみたい。豚骨と黒砂糖と味噌、焼酎などで味付けされた汁のなかで、じっと煮込まれたゆで卵。これはおでん並みに、いやそれ以上においしいのではなかろうか? これは家内もすぐに「それは、おいしいわね」と言ってくれると思ったが、「あまりいろんなものを入れない方がいいんじゃない」という返事だった。普段だったら「卵ぐらい入れてくれてもいいじゃん」と我を押し通すのだが、今回に限って「そうだよね」とワラゴマ(笑って誤摩化すの略)するしかなかった。

実は近々、私だけ仲間たちと北海道へスキーをしに行くのだ。かなりの出費があるもので、家内とはどんなわずかなことでも波風を立てたくないのでございます。
しかし、食べたいものは食べたい。で、どうしたか?「何か急におでん食べたくなったぞ」と言い残し、自転車で近所のおでん屋へ。一人前をテイクアウトしてきたのである。パカッと缶ビールをあけて、家内が見ていない隙におでんの卵を豚骨の汁につけて半分がぶっといった。口のなかでは黄身が「ここにいます!」と叫び、ラガーが「おうおうそこにいたのか」とこだまする。残りの半分には汁をたっぷりたっぷりしみこませいただく。思ったとおり、豚骨料理にゆで卵は合う。
すると「タマゴいれたの?」という声が。取り皿に残されたくずれた黄身が証拠となったのでございます。
「ラガー探訪ノート」にご登場いただいた萩原健太さんにお会いするために、彼のおすすめの巣鴨のお蕎麦屋さん「武蔵野」へ行った。そこは初めてで、入るなり「なんやここ、めちゃめちゃいいやん」と思ったのは、お店の佇まいがよく、そしておつまみにごぼうやはすのきんぴらがあったからだ。
しかし今回はそのことにはふれず、久しぶりにお会いした萩原さんとある話に夢中になってしまったことをお伝えしたい。これはきっと誰でも経験のあることだと思う。
それは、萩原さんが、若いときに訳知り顔で「そんな曲は聴かないよ」みたいなことを友人に言った自分が今となっては恥ずかしいという話が基点となった。マスター自身も尖っていた頃を思い出してしまったのだ。口から出るのは「センス悪い」。70年代初期、ロックを聴きだした頃は、歌謡曲に対し「何それ?」という感じで、クラスで誰かがそんなレコードでも持っていようものなら、「そんなの君聴いているんだ」「こっちとらロックよ!」 と。「今どきの若者はみんなロックよ!」「ウッドストックを知らないのか?」と、粋がっちゃうのでありました。
萩原さんは、当時の友人たちに謝ってまわりたいほどだと言う。音楽を追求すればするほど、その良さや深さが分かってくる。反省は人を大きくし、人は謙虚になっていくものである。
話を終えた萩原さんは「今夜はカミさんとうなぎにしようということになったんで、これから買いに行きます」と別れた。その後ろ姿の雰囲気が凄く温かった。マスターも早く家に帰り、熱いお風呂にゆっくり入って、カミさんと美味しいビールを飲もうと思った。
が、土曜日の夕方ということもあって「たまには一人で焼きトンでも」という、自分から自分への天の声が聞こえてきた。カウンターにひとり座って新聞でも読みながら、煮込みあたりから始まって、タン、ハツ、カシラを塩で、なんていうのもいいぞ、行っちゃえ!と。ビールも旨いぞ。でも、今日は早く帰るって言ってきたから、どうしようかね…となってしまって。

ここで飲んじゃうと「また飲んで来たの!?」とカミさんに言われ、特に悪いことはしていないのだが、反省を求められ、人間の大きさも求められ、謙虚さも求められるのである。グッドアイデアは、どこかで焼きトン買って、家でカミさんと飲むということか。尖っていた自分はどこに行ってしまったのだろうか。
結局その日は、近所で1本130円の焼きトンを2000円分買って帰り、あまったので翌日のお昼も食べることになったのでした。
「MUSIC MAN」に登場してくれた永田友純さんとマスターは、実はスキー仲間なのである。昨年の暮れに万座スキー場へ行き2日ほど滑ってきましたが、いやー最近のスキー場は映画『私をスキーに連れてって』(87年)の頃に比べると、リフトは待たなくていいし(かつては随分並びましたね)バンバン滑れます。スキー板がカービングになってから滑りが上達した気にさせられるのは、私だけではないはず。かつての長いスキーの頃は苦労いたしましたよね。
オヤジたちのスキーは、まずは午前中にスキースクールに入る。ここで初心に帰って、いろいろ確認するのであります。
で、ナイターなんかもやっちゃうのですが、このあいだナイターのリフト券を買いに行ったらチケット係の女性(20代前半)から「大人ですか、シニアですか?」と聞かれた。ガーンであった。こっちはいつまでも若いつもりでいるけど、そうは見られていなかったのですね。「シニアは何歳からですか?」と聞くと「55歳からでリフト券は1000円です」。「大人は?」「1500円です」。マスターは52歳。シニアにも見られたわけです。でもシニアは1000円、迷いましたね。500円得するか?若さを強調するか?
結局「大人ください」って答えたのですが、その後、「永田さんならどうする?」って聞くと「やっぱり大人でしょう(笑)」であった。永田さんとは同じ歳ですが、52歳で55歳以上に見られるということは500円得しても許し難いことなのだ。シニアって言葉の響きが怖い。

ナイターを終え、温泉に入り(これが最高の楽しみ)、湯上がりに飲むビールが旨いのなんのって、さっきシニアって言っとけば、もうひとつ缶ビールの大きいほう買えたな…なんてケチなこと思いながら飲む。
永田さんはマッサージを受け、リラックスしたのち一緒に野菜を中心とした食事をとり、食後は近辺を20分ほど散歩。これがダイエットにいいと永田さん。そういえば永田さん、温泉ではマイ・石けん、マイ・シャンプーとリンスを持参。中年はいろいろ気をつかっているのです。
蛤(clam)といえば、マスターの思い出はアメリカの第35代大統領ジョン・フィッツジェラルド・ケネディである。今回は大きくでたぞ。
25年ほど前に所用でマサチューセッツ州のケープ・コッドへ行った。そこから車で20分、ハイアネスという町へ行き、「MILDRED’S」というレストランでクラムチャウダーをいただいた。すると、そのレストランのオーナーから「ケネディが避暑でケープ・コッドに来ると、うちのクラムチャウダーをよく食べに来なさった。大統領に就任してからものう、ワシントンDCのホワイトハウスから電話があってのう、うちのクラムチャウダーを食べたいと言ってのう、わしは飛行機で届けさせたものじゃ」と聞いたのである。店内の壁にはそのときの礼状が額に入れて飾ってあり、凄いのう…と。電話は本人からかどうだったかは忘れたが、こういう逸話はマスター大好きで、その他にもそのレストランの近くにあった「BAXTER’S FISH MARKET」のオ―ナーであるバクスターさんも「うちは、別荘(ケープ・コッド)までクラムや魚をよく届けたわい」と、そのときの12ドル30セントのレシート(ケネディのサイン入り)を見せてくれた。ケネディが蛤好きだったのは間違いない。
蛤がたっぷり入ったクラムチャウダーのお皿にクラッカーを粉々にして、これとビールの相性もなかなかですが、焼き蛤(a baked clam)っていうのもこれまたオツなものです。そのままレモンをしぼって、また醤油をたらり。

蛤と言えば日本では三重県桑名が有名ですが、桑名名物の「時雨蛤」の時雨の調理法を英訳すると(shigure-ni,food hard boiled in soy)でございます。今回ケネディの影響もあって英語がよく出てきますが…。
「味の継承」に登場した「時雨蛤」、これは桑名の蛤が旨いということが日本全国に広がり、これをお土産にということで開発されたそうで。初めは単に煮蛤と呼ばれていたものに「時雨蛤」という商品名を考えついたのは、芭蕉の十哲の一人、各務支考(かがみしこう)と言われています。
今、国産の大きい蛤で1個が300円ぐらいし、かなりの贅沢な料理になりますが、5個は時雨煮でビールを味わい、翌朝は残りの時雨煮(希望は3個)をアツアツのおかゆに沈めてみてください。蛤は今が旬。ところで、「その手は桑名の焼き蛤」なんて、今時言う人少なくなりましたね。だから何だと言われたら、元も子も有馬温泉。大きくでたオヤジはだじゃれで終わるものです。
三浦憲治さんが松任谷由実さんの海外ロケでこれまで行かれたところは、南米のペルー(クスコ、空中都市マチュピチュ)、ブラジル(リオデジャネイロ)、それからF1レースのモナコ、ロケットの打ち上げでロシア(モスクワ、打ち上げ基地バイコヌール)、そしてチベット(ラサ)、ネパール(カトマンズ)などなど。主に80年代から90年代前半にかけてのこと。これらはほとんど雑誌の仕事で、特に思い出深いのは高地での撮影だそうだ。
ペルーの古都クスコは標高3360mで、酸素の薄い高地では記憶力が弱くなると言われているが、このとき持参していた酸素ボンベを同行のスタッフ全員がホテルに忘れ、高地は実に手強かったと。
また、カトマンズからヘリコプターで移動し、一泊の予定でエベレストビューという標高3850mにあるホテルに宿泊したこともあった。ここではヒマラヤ山脈エベレスト(8848m)を見ることが目的で。
このときは朝の5時から撮影の準備をしていたが、天気があまり良くなく、ヘリコプターが帰れる時間ぎりぎりまで粘ったそうだ。やがて、ようやくエベレストの山肌が見えたときは、この世にこんな大きなものが存在するのかと相当興奮したという。で、その日の夜、カトマンズの日本料理店で行われた取材打ち上げの席で憲治さんは、その興奮覚めやらんまま、チベットの人たちの事を突然「チベタリアン」と発言し、ユーミンは爆笑したらしい。

そんなこんなで憲治さんと話をしていると、この世にこんな面白い人がいるのかと思ってしまいます。(マスターとの付き合い歴28年)
今回、「ラガー探訪ノート」では麻布十番にある「総本家更科堀井」を推薦してくれましたが、麻布十番は憲治さんのお気に入りのエリア。それは事務所から近いということもあるのですが、焼き鳥屋さんやモツ鍋の旨いところで、昔の仲間たちと本当によく飲んでいます。20代の頃、初めてのフランス取材のときに、なぜかイボンヌというあだ名がついた憲治さん。昔の仲間が「イボンヌ」と呼ぶと、今でも「ウイ」と返事をしてくれる。こんな話を聞いているとおかしくて腹がよじれてしまうのである。
今回の「味の継承」でご紹介した新鮮なウニをたっぷり使った「ウニの厚焼き」。これ卵焼き界の王様であります。キング・オブ・オムレット。海外旅行の経験が豊富な方もe-daysファンに多かろうと思いますが、海外のホテルの朝食では、「タマゴどないすんねん?」って英語で必ず聞かれますよね。サニー・サイド・アップだの、ボイルドだの、ターンオーバーだの、スクランブルだのって、とにかく素早く意思表示しなくてはなりません。付け合わせにハム、ベーコン、ソーセージを選び、それらをすべて決めたあとに、ダイニングを見渡すとコックさんがフライパン片手にオムレツを作っていたりして、そこにも顔だけ出してみる。するとコックさんと客との間で「オムレツの具どないすんねん?」というやりとりがなされ、「ハム、チーズ、マッシュルーム、それから…」なんてやっています。キング・オブ・オムレットを知る者としては、ここで「なんだ、外国の卵焼きもたいしたことないのぉ」なんて思うわけです。ハムだ、チーズだ、マッシュルームだなんて、そんなの当たり前すぎて、ちんまりしているんじゃないかい。こっちは大胆に丸ごとウニだぞ。凄く豪華なんだぞ。
ウニの厚焼きのどこが、何が凄いかというと、まずは季節感。長崎の壱岐島では春になると、旬の菜の花のおひたしなんかをお弁当のおかずにし、このウニの厚焼きも磯で捕れたサザエなどとともに欠かせないそうだ。菜の花の緑に、ウニの厚焼きの艶やかな黄色、春を彩る憎いヤツではないか。

そして、お味を想像していただきたい。ウニだよ。すりつぶしたウニが卵にたっぷり入っているんだよ。味付けは塩をパラリだけだけど、醤油タラリがまた旨い。ウニのねっとりとした、とろっとしたまろやかな味わい、そして卵のふんわりとした味わい。これが重なりあって、本当にたまらないです。ご飯にももちろん言うことなし。
で、これを日曜の午後3時過ぎぐらいにビールを飲むためだけに作ってみる。ウニは惜しみなくひと舟でいこう。(ボーナスまだありますか?)ビールを冷やし、ウニの厚焼きを作る。出来立てアツアツをいただき、ラガーをいただく。一人で誰にも奪われることなく。そして台所は何ごともなかったようにすぐに片付ける。これ重要。つまり「パパ何食べてんの?」「あなた何しているの?」と誰かに見つかってしまったら「卵焼きを食べてんの」でいいんです。ウニなんていうと騒がしくなりますよ。見にきて「何かこの卵、黄色くない?」って言われたら「1個65円のいい卵買ったんだ」これでよし。成功を祈る。
今回「ラガー探訪ノート」にご登場いただいた小倉エージさんとの思い出話をひとつ。実はマスター、1990年にエージさんと一緒に香港へ行きました。目的は、香港料理のいろいろを食べつくすこと。高級アワビ(ちびちび食べた)料理から始まって、さらに高級なホラガイ料理(もっとちびちび)、高級有名料理店巡り(安く仕上げた)、飲茶(食った食った)、ヘビ料理もいただき(お顔つやつや)、また、野味料理(野生動物料理)も食べに行きました。
野味といえば日本でも奇味、珍味のことをいかものと称していろいろと食べていましたが、中国には敵うまい。エージさんとの香港で印象深いのは、菓子タヌキというハクビシンを食べたこと。日本でも古くからタヌキ料理は食べられていたみたいで、室町時代に書かれた「大草流家元料理書」にムジナ汁が紹介されている。このムジナとはタヌキのことらしく、作り方なども書いてあるが、それは強力過ぎるのでまた別の機会にゆずるとして、さて野味料理の菓子タヌキ。これは高級素材として、香港ではそう驚くことではないのだ。ハトぐらいの感覚ではなかろうか。そのときは、煮込み料理を食べ、肉はやわらかく甘みがあったと記憶する。また、食べられなかったけれど、ほかにもあの食材が美味しいなどというグルメ話も聞き、香港人の食に対する追求心にはあらためて驚いた。
その後も香港へ行く機会があり、エージさんに「○○○というお店に行きたいのですが」と相談すると、あそこならこんな料理が今なら旨いと料理名をさらさらと書いてくださって、案内状までお願いし、それを持ってお店へ行くと「小倉さんはお元気か?」などと聞かれ、もてなしを受けたのであった。メニューにはない凄くシンプルな麺料理を出してくれたりして、いい経験をさせてもらった。

ところで香港での楽しみといえば何といっても飲茶だ。ガヤガヤしたところで、テーブルクロスが汚れても気にしないで大声で話しながら食べる活気あふれる食事風景。で、店員さんにお茶のおかわりをすると10人中9人までが誰かと話をしつつ、よそ見しながらお茶をつぐ。忙しいからこぼすのなんか気にしない。これもまた飲茶の楽しみ。
香港に着いたら、まずは餞焼鴨胸(スモークダックの蜂蜜風味)なんかを食べながらビール。このときにやたら冷えたビールを飲むと、ああ香港に来たのだなという気分になるのである。香港で出されるビールはなぜか凄く冷えているんでね。
サバは庶民の魚である。しめサバ、味噌煮、味噌焼き、塩焼きなどがありますが、好きな人多いんですよね。そして、わりと知られていないのが今回の「味の継承」でご紹介した島根県は宍道湖沿岸あたりの郷土食「サバの塩辛」。サバを塩辛だなんて、ちょっとエグくないかいと引いちゃう方もおられると思いますが、まぁ聞いてください。(サバが苦手な人も少なくない。苦手な人は皮のあたりの脂身が魚臭くてというのが、大概の理由)
イカの塩辛を作ったことがある人はお分かりかもしれませんが、塩辛って、つまりは腑を使い、塩をまぶして瓶のなかに入れて発酵させて作るものなんですが(ちょっと味噌を、また柚子を入れると美味しくなる)、サバの塩辛の場合は内臓を入れるやり方と入れないのがあります。
世の中には臭い料理が好きというクサ好きがいます。日本にはクサヤ、お隣の韓国では「ホンオ・フェ」なんていう魚のエイを瓶に詰めて発酵させる高級料理があります。これはクサヤなんか目じゃない。アンモニア臭いと言いますか、強烈すぎて目はシバシバ、咳き込んじゃう。で、こういう臭い料理がたまらなくとても好きというクサ好きは、サバの塩辛を作るときにサバの内臓も入れることをおすすめします。(もちろん新鮮に限る!)クサヤやホンオ・フェみたいに家内爆臭ということにはなリませんが、相当マニアックな発酵具合をお楽しみいただけると存じます。

では、魚臭いのが苦手な人は塩辛にするとき、サバの皮も取り去り、つまりは身だけにして作るといい。すると魚臭さがなくなって食べやすくなる。もちろんクサ好きには物足りない。ですから、今回はあいだをとって、内臓なし、皮つきとなったわけですが、やっぱり発酵させたものには、ビールが合う。もっと合うのが、炙り。時々、ビールを冷やすのをうっかり忘れちゃう人がいますが、こんなちょっとしたことでオヤジたちは凄くがっかりするものです。ですから冷やし忘れがないかご確認の上、サバの塩辛をしみじみと炙って、熱々の焼きたてを頬ばり、キーンと冷えたラガーをグビっといってくださいませ。
今回「ラガー探訪ノート」に登場いただいた武部さんは、「僕らの音楽」などのテレビ番組に出ていたりしますが、マスターが生の姿を初めて見たのは音楽監督をされていたユーミンでのコンサート。もうずうっとそうだから、コンサートでユーミンのメンバー紹介のとき、「武部聡志!」という名前を聞くとなぜかキリッとしてしまう。(こういう人多いんじゃないかな)
今年の「ユーミンスペクタクル シャングリラⅢ〜ドルフィンの夢〜」、9月17日の東京での最終公演のときも、ファンのひときわ大きな拍手にやっぱり武部さんは凄いと再認識してしまった。淡々としているけれど凄い力を持っている縁の下の力持ち。そんな武部さんがいるからこそのユーミンなんだな、とも思う。
ステージが終わり武部さんをバックステージでもお見かけしたが、心地よさそうな緊張感が伝わってきたのを思い出したりして。
さて、今回は武部さんと天ぷらと相成った。カウンターに座り、揚げたての天ぷらをいただく。(このシリーズ、いつもマスターはご相伴させていただいているが、今回は取材後に入っていた別の仕事の都合もあって、食べるのを自粛しなければならなかったのだ)
天ぷらは、塩、つけ汁、そして醤油でもいただく。旬の魚、野菜、どれもこれも旨そうだ。武部さんはカラっと揚がった海老をまずは塩で、そして大根おろしの入ったつけ汁でいただく。「シッポはどうしたらいいですかね」なんてお店の親方に聞く。(食べたいなー)

また、凄くうらやましかったのが、穴子の天ぷらを親方おすすめの醤油で、と武部さんがすすめられたとき。思わず喉がなりました。揚げたて穴子のころもに醤油がしみこんで、サクサクとした感じが伝わって来て、味まで浮かんで、目の前にあるラガーを飲みたくなりました。「初めて醤油で食べましたけど、これ合いますね」と武部さん。マスターは「ご飯に合うでしょうね」と言ってしまいましたが、「ビールが欲しくなりますね」と武部さん。そうビールが欲しいの、私も。見ているだけっていうのはやっぱりつらい。次にいただいていたギンナンとビールも合うんだよね。
「いや、全部美味しかった」と笑顔を残して、次の仕事に向かう武部さん。多くのシンガーのアレンジを手がけ、「その人といろいろ話をすることから始まります。僕の仕事はわかりやすくするってことかな」って話してくれたけど武部さんがいると、みんなさぞかし心強いのでしょうね。
今回の「味の継承」でご紹介した豚の醤油煮は、まさしく一度は作ってみたい豪快な料理だ。まず、豚肉の塊(ブロック)ドーンというのが嬉しい。普段は「豚コマ200グラムちょうだい(今夜はカレーだな)」「生姜焼き用4枚、脂身少ないとこ」などと小声で買っていたのに突然、キロに近い塊を買うのである。
「間違いなくボーナス出たな」と、肉屋のオヤジは思うだろう。そして、タコ糸を購入し、すべての材料をキッチンに並べたとき、タコ糸の存在感のあまりの大きさに気がつく。「しばるのだ、誰にはばかることなく、私はこの糸でついに塊をギュッとしばるのだ」。料理好きにとってタコ糸というのはオオゴトである。塊をしばるのは興奮するのである。
くるくると頑丈なタコ糸を肉の塊に巻き付けながら「一度やってみたかったんだよね」となる。塊にタコ糸がくいこむ。これがまた嬉しい。(なぜ、タコ糸をかけるかというと、かたちが歪まないため、あくまでかたちを整えるためです。さらに指一本程度が入るゆるみが必要。興奮のあまりギュウギュウに結んではいけません)
そして厚手の鍋で煮込むのだが、なぜかこのとき頭のなかで某TVドラマのテーマソングが流れ出す。そうこれは北海道の郷土料理なのだ。本当は薪ストーブに大きな鍋を置いて、キタキツネなんか気にしながら煮詰めていくのである。

出来上がりに待っているのは、醤油が染み込んで茶色になった表面である。これが食欲をそそる。まずは、出来立ての表面をそこだけカットして冷えたラガーを飲む。ささやかながら役得を感じる。ここからである。どうやって食べようか、マスタードもいいし、ブラックペッパーを少々でもいいし、そのままでもいい。何たって嬉しいのは塊ごと自由にしていいということだ。
今夜はビールを飲みながらガブッといって、明日は味噌ラーメンにネギたくさんとコーンとバターを入れて、焼豚がわりに入れちゃう、などなどいろいろ浮かぶ。また、正月にお客が来たときにもいいな、などと。するとそろそろラガーもまとめて酒屋に頼んでおかなくちゃと急に慌ただしくなっていくのでした。ボーナスのあるうちに。
マスターがちょっと留守中ですので、ワタクシ(このサイトの“管理人”です)が代理で“鬼のいぬ間に独り言”です。いつかこのカウンターの内側に立ってみたいなと思っていたんですよね。
ブレッド&バターの岩沢ご兄弟とお会いしたのは今回の「ラガー探訪ノート」が初めてなのですが、お二人ともイメージどおりのやさしくて爽やかな方たちで、キリンラガービールを酌み交わしながらの、とてもなごやかで楽しい取材となりました。
なかでも面白かったのは、岩沢幸矢さんが、60年代にアメリカをヒッチハイクで横断したというお話。麻田浩さん(いまは“Tom's Cabin”という、シブい海外ミュージシャンのコンサートをプロモートする会社をなさっています)とお二人で、片道切符で出かけたということに、とてもびっくりしました。もう日本には帰ってこないと決意していたそうです。1ドル=360円の固定為替相場で、海外出張のときは社員が羽田空港に見送りに行くような時代のことです(幸矢さんのご友人やご家族も、やはり羽田まで見送りに来られたそう)。まさにフォーク・クルセダーズの「青年は荒野をめざす」(五木寛之作詞、加藤和彦作曲)を地で行くようなお話ですよね(こんなたとえをしてしまうと、代理マスターもやっぱり古いのね、とか言われてしまいそうですが)。
アメリカ西海岸に降り立った幸矢さんと麻田さんは、レストランで皿洗いのアルバイトなどをしながら、アメリカのあちらこちらを放浪します。いまよりもアジア系の人が少なかった時代ですから、いろいろな場面で人種差別的な扱いを受けたり、危険を感じたこともあったそうです。やがて2人がたどりついたのがニューヨークのグリニッジ・ヴィレッジでした。
60年代半ばの“ヴィレッジ”といえば、ボブ・ディランやジョーン・バエズ、エリック・アンダーソンなどのフォーク・シンガーやアレン・ギンズバーグ、アンディ・ウォーホル、ルー・リードなど、いろんなアーティストが闊歩していた、まさにボヘミアン村だった時代です。幸矢さんによると、そうした人たちを実際にあちらこちらでよく見かけたそうです。

当時は、土曜日になると、アメリカ中の若者たちがにわかヒッチハイカーとなってニューヨークにやってくるようになり、彼らは“ウィークエンド・ヒッチハイカー”と呼ばれたそうです。
幸矢さんのお話をそこまでうかがって、突然、サイモン&ガーファンクルの名曲「アメリカ」の歌詞が私の頭の中に思い浮かびました。アメリカ中の若者たちが、何かを探してヒッチハイクでニューヨークにやってくると、歌われていますよね。なるほど、そういうことだったのか。幸矢さんのお話をうかがって、はじめて、60年代末期に生まれた「アメリカ」という曲の背景が少しわかったような気持ちがいたしました。
ところで、幸矢さんは、1967年にニューヨークのカーネギーホールでこのサイモン&ガーファンクルのライブをごらんになったそうです。舞台の上は2人だけ。伴奏はポール・サイモンのギター1本のみ。2人だけにスポットをあてたシンプルな照明だったそうです。そのときの様子は、同じ年のニューヨークのリンカーンセンターでのライブを収録したアルバム『Live From New York City, 1967』(輸入盤のみの発売)でうかがい知ることができます。こういう飾り気はないけど中身や思い出がたっぷりとつまった音楽でビールを一杯やるのもいいですね。
北の町からはすっかり雪便りも届き、鍋の季節です。今回「味の継承」でご紹介した葱鮪(ねぎま)鍋は花のお江戸、庶民たちの定番でした。「ねぎまの殿様」っていう落語があるぐらいで、昔は庶民が行く一杯飲み屋でもこの葱鮪鍋はひんぱんに食べられていたそうです。その匂いがいいのなんのって。落語に出てくる殿様は、その匂いにひかれて立ち寄り、美味しさに驚いてしまうわけです。で、当時の一杯飲み屋は樽の腰掛けにお客が座っていたみたいで、ねぎまの殿様は、お城でねぎまを作らせ、樽の腰掛けまで用意させてしまうわけです。このお話、背景は雪見なんですよ。
熱々の鍋にネギが浮かぶ。マグロも浮かぶ。シンプルで綺麗なものである。まずは、熱々のマグロをフウフウしていただく。醤油の味がほんのりとし、マグロってやっぱり旨いんだよね、刺身や握りもいいけどたまには鍋だよね、なんて言いながら、ラガーをいただく。ここまでは何の問題もない。次にネギをいただく、ここからです。ネギのなかから熱い汁があらぬ方向へ飛び出してくるのだ。この熱いのを我慢しながら「鍋にしたときのネギは、鉄砲って言ってさ、ほらアジジでしょ」と言いながらいただく。

「鉄砲ってさ、ほら熱い弾が飛び出してくるでしょ、だからネギは鉄砲っていうの、アジジジジィ」
すると家人は言うのである。「毎回同じことを言ってるよ」と。だけど「しょうがないじゃん、ネギは鉄砲なんだから」としか言い返しようがない。皆さんもそういった、同じ事を何度も言ってしまうクセというか何というか、そんなのありますよね。お寿司の出前なんかとると、「そういえば、醤油はムラサキって言うんだよね」とか。
さあ、今夜あたり江戸の定番鍋を、あなたの定番のキリンラガーと一緒にいかがですか?(今回は決まったかな)
「ラガー探訪ノート」にご登場いただいた高水健司さんは1951年(昭和26年)神戸の生まれ。73年、故・大村憲司さん、村上“ポンタ”秀一さんらのグループ『エントランス』でベーシストとして活動し、のちにジャズピアニスト市川秀男さんのトリオに。その後数多くのアーティストのレコーディングやツアーに参加する。フレーズが歌う、ベースラインが歌うなど、その演奏テクニックは評価が高い。
そんな高水さんと今回初めてお会いしたのですが、NEW YORKにいそうな、この道何十年という酸いも甘いも噛み分けるジャズ・マンという雰囲気が感じられた。それは音楽がしみついているとでもいうのか、身体からにじみ出てきているものだ。
ところで我々世代は、ジャズ・マンのファッション(エクストリーム・アイビーなんて言われた)に憧れた。いや、ジャズ・マンに憧れたけど、楽器ができないので、せめてファッションでも、というのが正しいか。ストイックな感じがして、またジョークなんかも気が利いていて、男性はもちろん女性だってほっとかない。
話が進むにつれてビールも進み、高水さんが大阪時代、ドラマーの宮川彪さん(ザ・ピーナッツの育ての親の作曲家宮川泰さんの弟)に大変世話になったお話を伺っているうちに、高水さんがますます憧れのジャズ・マンになっていく。それは、ハナ肇とクレージーキャッツが活躍している頃と時代は重なり、クレージーキャッツといえば、米軍基地などで進駐軍を相手に演奏していたジャズ・マンだったからである。

勝手にイメージは広がり、高水さんにジャズ・マンがよく履いたと言われる「モンクストラップの靴は履いていましたか?」とちょっと返答に困るような質問をしてしまったり。でも「どんな靴ですか?」と丁寧に聞いてくれて、「こんな感じで」と説明すると「懐かしいですね」となった。ウッヒャー、やっぱりジャズ・マンだ。マスターはこんなことにも喜んで、和牛ヒレをがぶっといき、ラガーをごくっと飲み、ウッドベースを弾いていた高水さんはさぞやカッコよかっただろうなぁと、ひとりうなずくのであった。
富山はいいところだ。マスターは魚を食べに多いときで年に5回は行く。行くときは飛行機を利用せず、電車である。東京から上越新幹線で越後湯沢へ行き、ここで特急はくたかに乗り換え富山まで。所要時間は約3時間30分。何を好んで電車かというと、それは車窓である。日本海沿いを走るはくたか、富山に近づくと立山連峰が見え、今の季節は雪の立山、晴れた日などは本当に見事だ。
今回「味の継承」でいただいた「おからの炒り煮」は富山市の手前、魚津の郷土料理。地味な料理だけど、こういうのはご飯だけじゃなくて、ビールにも合うのだ。おからの甘みとイカ、にんじん、ごぼうなどは塩、醤油で味付けされ、甘いと辛いのごちゃごちゃ感が「オーイ!ラガー、早く来―い」と呼ばずにはいられなくさせるのである。だいたいイカって知れば知るほど料理をしたくなる素材で、塩辛、ポッポ焼き(七輪の炭火で焼くと最高)、ゲソ焼きなどなど迫力には欠けるけどビールとの相性はプラチナ級だ(ちょっと誉め過ぎかな)。
で、日本有数の漁場でもある富山湾を望む魚津あたりでは、不漁に備えた知恵が豊富にあるわけで、干し物、つくだ煮など保存できるものや、また、ちょっとした組み合わせでおいしくなる料理なんていうのはお手のものだろう。イカにおから、誰かが思いついてさっと混ぜて作ったら、これが旨かった。イカはそもそも刺身で食べる、と魚津の人に聞いたことがある。捕れたての魚はほとんど刺身で食べるってね。だから、この料理はイカがたくさん捕れて、刺身で食べて、煮物にもして、足が残った時に作るそうだ。残り物には福がある。
さて、独り言はこのくらいにして、今夜は飲みに出かけてきます。たまにはピザとビールもいいね。アンチョビきいているやつ。口のなかしょっぱくして飲むキリンラガー、うわーたまりません。では、行ってきます。


ロック一筋38年の大貫憲章さん。ザ・クラッシュ、セックス・ピストルズなどをいち早く日本に紹介し、ロンドン取材から帰国するとキングス・ロードにあったブティック「セディショナリーズ」(デザイナーはヴィヴィアン・ウェストウッド)のボンテージパンツや多色使いのモヘアのセーターを着込んで、それはそれはカッコよかったのだ。1977年の事だから、もう30年も前の話だが、実はマスターもパンク・ファッションにのめりこんだことがあって、髪をおったてて、ロンドンのポートベロー・マーケットで買った革ジャンなんか着たもんです。
そんなことから憲章さんとは一緒にお食事などをさせていただくことになり、一度、憲章さんの知り合いのパンク好きのイラストレーターとカメラマンと焼き肉を食べに行ったことがあるんです。ビールを飲みながら緊張した面持ちで憲章さんのパンクの話に耳を傾けていると「その肉ボクのじゃないかな」と「いや、これはこっちのだよ」「そうかな」「そうだよ」とイラストレーターとカメラマンが肉問題で、血走った。憲章さん苦笑いしながら「大人なんだからケンカしないで食べようよ」と、一件落着。
今回の「ラガー探訪ノート」は憲章さんの地元、自由が丘にある「ミセスハンのお店」でビールと韓国家庭料理をいただくことと相成り、さっそくその思い出話をするとビールをおいしそうに飲みながら「険悪だったような」と笑い、「でも、あの頃はわくわくしていたよな」と目を細めるのであった。

憲章さんもイラストレーターとカメラマンも当時みんな20代、好奇心のかたまりだった。それから話題はクラッシュになりラガーをぐび、ストラングラーズになり、焼き肉ジュージューでラガーをぐび、トム・ロビンソン・バンドになりこれまたラガーをぐび、おいしいビールで話に、食欲に勢いついちゃった。
それにしても、あーやっぱり1980年のクラッシュのロンドン・ツアーに同行取材した憲章さんがうらやましい。
新潟では寒いさなか、三面川(みおもてがわ)に鮭が遡上してきます。で、これが絶品といわれている。鮭といえば北海道の石狩川が有名ですが、三面川のそれも身も厚く、味がいいのです。今回「味の継承」では「鮭の納屋煮」をご紹介したのですが、その鮭にまつわる話をまぁ聞いてください。
江戸時代、川にのぼってくる鮭の権利は、殿様が持っていたんですね。これは大切な財源で、例えば岩手の南部鼻曲がり鮭(雄に限る)がありますが、あれは南部藩の御用船をつとめる前川善兵衛という男が江戸へ売り込むために「鼻曲がり」というキャッチフレーズを用いたそうです。鮭をより売ろうとして、いろいろな苦労があったわけですが、この「鮭の納屋煮」のルーツもしかり。鮭のシーズンになると密漁者が出てくるわけです。で、大切な藩の財源、一尾たりともとられてはならぬと、夜通しの見張り番がいました。今では船の出入りを待ったり、道具を保管したりする場所として納屋が使われていますが、当時は川のほとりにいくつもの見張り小屋が並び、その見張り小屋を納屋と呼んだわけです。納屋で見張りをする番人たちが、お腹がすいたら、どうするか?
これは役得というのでしょうか、それとも内緒というのでしょうか、目の前の川から鮭を捕って、その場で調理ですよ。なんとも豪快だねえ。それに大根、ネギをどばっと入れて、味付けは、越後味噌です。

とろり煮込みながら、「いま、なにか音がしなかったか」「ならば、おぬしみてこい」「いや、おぬしこそ」などと話しながら、熱いのをふうふうしながら、食べるわけですよ。片手に奥方の作ったおむすび、これはさぞや旨かったでしょうね。納屋というのがまたいいですよね。マスターぐらいの年代になると小屋とか納屋とかって凄く憧れるのです。しかし、番人は、煮込まれた鮭や大根とビールの相性のよさを知ることもなかったわけで(日本人がビールを飲むようになったのは明治時代)、マスターは、ビールのある時代に生まれてきて本当によかったと思います。さぁ、おぬしもラガーがなくてはならないのではないか?
「ラガー探訪ノート」にご登場いただいた斎藤ノブさん、サングラスをとられた目元は男っぽくて、優しい眼差しであった。我々オヤジ連中にとってノブさんが審査員をしていたTV「いかすバンド天国」ことイカ天が懐かしい。あれは1989年(平成元年)に始まったんですね。ビギンを見た時の驚き、たま、フライングキッズ…….いいバンドだった。ノブさんは辛口の審査員、正直な人だと思って見ていました。(なぜかおにぎりノブさんというあだ名がついた)さて、ノブさん、この世界のスタートは浜口庫之助さんのお弟子さんからだったのです。浜口庫之助さんといえば「バラが咲いた」(マイク真木/1966年)「夕陽が泣いている」(ザ・スパイダース/1966年)「夜霧よ今夜も有難う」(石原裕次郎/1967年)など昭和を代表する作詞・作曲家。メロディを口づさみながら歌を作るなどノブさんの思い出話をお伺いしたが、相当ダンディな方だったらしい。音楽に取り組む姿勢は厳しく、イカ天で辛口だったノブさん、その辛口の理由は「浜口先生もそうでしたから」と言う。
さてさて、今回ノブさんが紹介してくれた行きつけのお店は麻布十番にある「梁山泊」。「まずは、これ食べてみて」とノブさんが“子袋のにんにく合え”をすすめてくれる。きれいに仕事されたコリコリの新鮮子袋、ほのかなごま油風味、塩と辛みがほどよくビールとは相思相愛。ノブさんも食べながら嬉しそうにラガーをゴクッといく。「次、これ食べてみて」とノブさんに唐辛子が思いっきりまぶされた鶏の唐揚げ“火の鳥”をすすめてもらい、がぶっといくと、眼汗、耳汗、凄く辛い。ビールが美味しいこと。辛いだけではなく、鶏がジューシーで、これ旨かったなー。ノブさんこちらを見て「そんなに辛くないでしょう」と、これまた嬉しそう。


ノブさんの話のパワーとテンポにノッて、場がどんどん元気になっていく。これはノブさんのパーカッションと同じ。“火の鳥”の辛みとホクホクの唐揚げが口のなかいっぱいに広がり、冷えたラガーがそれを流してくれる快感に酔いしれた楽しい夜でありました。
明石といえばタコである。地元では明石焼き、タコ飯などで美味しくいただいている。タコ飯の場合は干しダコ(一日干す)を火であぶって、やわらかくなったところを包丁で刻んで砂糖醤油(酒少々)につけ込み、炊き上げる寸前のご飯に混ぜ込む。これは違った意味でビールにうってつけの料理です。ご飯に混ぜ込む前のタコをちょっといただきながら、「ちっと醤油が足りないかな」なんてつぶやきながら飲むビール。こういうのがまた旨いんです。
今回の「味の継承」は「タコの卵焼き」ですが、これがあっという間に作れるので、つまみながらの料理という点では、刺身醤油を用意して、材料のゆでダコをひとくち、ふたくち、いただくぐらいですね。当然これじゃ物足りないから、あぶってみようというアイデアも浮かびます。足をちょっとあぶって、醤油たらりで、「アジアジッ」なんて熱々をいただけば、ビールも待っててはくれません。「アジアジッ」に即冷えたビールです。これまたビールのおつまみによく合うこと。とにかく今回しみじみと、タコは旨い、タコはやる、タコは凄いと思いました。
で、「タコの卵焼き」ですが、タコというのは包まれたい食材なんですね。タコは寂しがり屋。タコ焼き、明石焼きと粉ものに包まれるとどうしようもなく実力を発揮し
ます。天ぷらもいいです。これが卵ですともう卵のなかで、キミしだいなんて言ってもだえております。これがビールに合わないわけがない。だって卵焼き好きってオヤジ世代に多い事は、マスターはよく知っています。季節がら、運動会や遠足のシーズンですが、子供たちのお弁当のおかずの残りもんで夕方ビールを楽しみにしている知人もおります。そのときのエースはちょっと残った卵焼きです。
さて、作り方は超簡単。材料は明石のタコでと言いたいところですが、普通に売られている真ダコでOK。卵はフワフワ感にこだわって、ささっと作ってみてください。タコだらけの卵焼き、これすべてひとりじめ。これにラガーで至福のひとときです。
CMで歌われたバズの『ケンとメリー~愛と風のように~』のヒットは1972年(昭和47年)のこと。この年がどんな年だったかというと天地真理、南沙織、小柳ルミ子とで3人娘と呼ばれ、それはそれは大変な人気だった。また、ビリー・バンバンの「さよならをするために」、ガロの「学生街の喫茶店」、チューリップのアルバム「魔法の黄色い靴」、井上陽水のアルバム「断絶」などがヒットした。今回の「ラガー探訪ノート」にご登場いただいたバズの東郷昌和さんは当時20歳で、ファッションはアイビー。ボタン・ダウンシャツにコットンパンツ、またTシャツにジーンズという感じだった。彼とはよく飲みましたね。で、当時からキリンで、久しぶりにお会いいたしましたが、ファッションも好みのビールも変わっておりませんでした。
「ところで、『ケンとメリー~愛と風のように~』ってどのくらいのヒットだったの?」「32万枚ぐらいかな、この年は化け物があったからさ、あれに比べたら大した事ないよ」「わかった、ぴんから兄弟の『女のみち』でしょ」(326万枚と言われている)こんな話をしながら当時にタイムスリップ。焼き鳥って、串のまま口にもって、ぐっと横にひきながら食べるものだから、話の勢いとともに、
何か勇ましくなって行く。ビールもすすむし、話もすすむ。どんどん焼き鳥を平らげ、「ここの焼き鳥、旨いだろ。刺身もいけるだろ」、やがてやがて、昌和さんは好きなプロ野球の話に(中日ファン)。高木守道の大ファン。かつてもこんな話をしながらよく飲んでいました。最近、バズ再結成で地方のコンサートが楽しみだとか。しかし、飲むほどに話をするほどに、昔と同じ笑い顔になる。思い出って、定期預金みたいなもので、会わなかった年月分、貯まる貯まる、娘だ息子だといろんな話が。人生という荒波の利子もついて、いいオヤジになっていた。「ビール、もう一本」美味しかった。
「いやー旨かった旨かった」。今回の「味の継承」はかしわのすき焼き。ちょっと煮込まれて醤油と砂糖と松茸の香りに包まれた鶏肉。これにとき卵をくぐらせて、がぶっといった。ビール、ビール、早くビール。お味を想像してみてくださいね。すき焼き味に身の締まった鶏肉の歯ごたえ、キーンと冷えたラガー。のどごしよく、卵のとろーりと砂糖の甘さと醤油味がお口いっぱいに広がり、それをビールがよかったね、よかったねとささやきながらさっぱりとさせてくれる。そして松茸の風味、これまたシャキッとしたタマネギの甘さ。ぜひ作ってみてください。
ところで、「すきやき=うひゃ御馳走だ!」という方々も多いはず。何なんでしょうね、「すき焼き」の魅力って?私も「すき焼き」次の日には決まって学校で「おれんち、昨日の夜すき焼きだったんだぜ」と自慢したものです。「肉は牛だったんだぜ」--聞いている者たちは、これだけでもう、金メダル級のよだれものですよ。
そうそう、肉といえば、ウチによく遊びに来るイトーちゃんは宮城県出身の人で、もう50歳になるかな。お父さんもお母さんも学校の先生で、4人兄弟はすべて年子。で、小学校の頃、日曜日というと決まってカレーライスだったらしいのだが、カレーの中身はたっぷりのジャガイモとニンジンとタマネギとそしてサンマ(身をくずしたもの)だったそうで、イトーちゃん、カレーとはサンマで作るものと思い込んでいた。中学で初めて豚肉入りのカレーを食べたそうですが、今でもときどきサンマカレーを食べたくなるそうです。
さてさて、かしわのすき焼きも、きっと和歌山の紀ノ川辺りの人が、おもてなしで、この料理を作ったのでしょう。客人が来たり、お祭りのときなどに振る舞う。大変な御馳走でしょ。近所で採れた松茸をごっそり入れて、美味しいお酒と一緒にみんなで愉しんだのではないでしょうか。そんなことを考えながら、しみじみとビールをぐびっと飲む。イトーちゃんのことも思い出しながら、もう一杯。こうしてマスターはなぜか、今夜もしあわせになっていくのです。
東京・人形町の「十四郎」で南佳孝さんは、「ラガー探訪ノート」の取材時間の1時間ほど前にいらして何やら女将と話をしていた。大好きな人形町の情報交換でもしていたのか楽しそうであった。さて、撮影が始まり、佳孝さんはまずは冷えたキリンのラガービールをグラスに注いで、さっと飲み干した。そして、炭火の上には、今回の撮影のために女将が山陰から取り寄せてくれた蟹(解禁前なので冷凍されたものを一尾だけ)、また、松茸、ノドグロなどが並び、「これがビールに合うのだな」と佳孝さんはつぶやきながら、あつあつをいただく。美味しくて嬉しいとハミングが出るんですね。佳孝さんがなんとなく口ずさむ。こんなときのビール、さぞや美味しいのでしょう。
話は多いに盛り上がり、「なぜか田舎なのに凄い旨い中華料理屋があって」などとこれまでコンサートで出かけた日本全国のうまいもん話になった。「最近は、どこへでも行くよ。ステージが終わった後、地元で仲良くなった人たちとそこでしか食べられない料理をたべて飲んで、これが最高なんだよ」と、その笑顔から、いい歳のとり方をしているなぁと思えた。
我々にとって南佳孝さんは、「モンローウォーク」、「スローなブギにしてくれ」「PARADISO」など、都会の雰囲気や気分をいろいろな角度からリリカルなメロディにしたシティ・ポップスの先駆者。歌の雰囲気からして近寄りがたいと思われそうだが、実はそうではない。茅ヶ崎に引っ越して10余年、仲間たちとのパーティにはギターを持って行くことも多いとか。「もっと元気に歌えよなんて言われてね。次の日、家で一生懸命に練習したりして(笑)」佳孝さんはいつも自然体。取材を終え、帰る頃にまたハミング、おいしいラガービールのひととき。あの声もやっぱり昔から変わらない。


今回は「ラガー探訪ノート」取材時のお話。
横浜・中華街の「楽園」で松山猛さんは、次々出てくる料理に手をつけず、まずは冷えたキリンのラガービールをグラスに注いで、ぐびっと美味しそうに飲む。そして料理をいろいろとつまみ始めた。そんななか今回松山さんからそうか、そうだったのかという当時のお話をうかがった。
それは、ザ・フォーク・クルセダーズ「帰って来たヨッパライ」の、あのテープの回転をずらすというのは、誰が考えたかということで、「当時、加藤和彦さんがよくビートルズの『ホワイトアルバム』を研究していて、つまりそれは録音のいろんなテクニックが詰まっていたアルバムだったから、逆回転であるとか、そういうところから発想したのではないか」であった。なるほど。
ビールを飲みながらおいしい料理のひとときだからこそ聞ける話かも。松山さんは「ここの裏メニュー食べてみる?」と取材班に聞いてくれた。みんなが「ぜひ!」となり、「じゃママ、ロウメン3人前お願い」となった。これが汁のないラーメンとでも言ったらいいのか、昔のレシピをそのまんま復元した料理で、麺の茹で具合といいスープの染み込んだ味といい、もう一度食べたい!と叫びたいぐらいおいしい料理だったのである。松山さんは、、このときも冷たいビールをぐびっ。本当においしいそうに飲むのであった。
やがて話題はサディスティック・ミカ・バンドのアルバム『黒船』の制作話になるのだが、当時松山さんを始めまわりはロンドンポップ華やかしき頃のロンドンへ旅をし、日本を客観的に見ている。
それで、「日本人が大きな意味で未知との遭遇のような経験をした幕末って何かおもしろかったんじゃないか」と、いうコンセプトでこのアルバムは始まったのである。そう考えると「タイムマシーンにお願い」はなんと素敵な曲だろうか。
このアルバムは1960年代から今日に至るまで第一線で活躍するクリス・トーマスのプロデュースによるもの。余談ながらクリス・トーマスはエルトン・ジョンとは同級生で学生のときにバンドを組んでいる。で、実はクリス・トーマスは、『ホワイトアルバム』の制作にかかわっており、アシスタント・プロデューサーだったのである。