ムーンライダーズのリーダー、鈴木慶一は東京生まれ東京育ち東京在住という生粋の“東男”である。50代となってなお、やれライヴだ、やれレコーディング、やれ飲みだ、やれサッカー練習だ、と、昼夜問わず東京を我が庭のように気ままに動きまわる様子は、まさに東京人と呼ぶにふさわしい。そんな鈴木慶一にとってロックを感じる町としての東京は、人と交流し情報交換できる場所というイメージと直結しているという。昨年、ムーンライダーズはデビュー30周年を迎えたが、鈴木慶一自身は来年、久々のソロ・アルバムを発売する予定。今なお日夜活動する東京への無意識の愛着が滲み出た1枚になるのは、間違いなさそうだ。
インタビュー・文/岡村詩野 写真/サコカメラ

―慶一さんは東京・羽田のご出身で、以来、1度も他の町に住んだことがないそうですが。
鈴木慶一(以下S):そう。東京以外まったく知らない。せいぜいレコーディングでロンドンに滞在したとか、そのくらい(笑)。だから他と比べようがないし、東京であるゆえの魅力とか楽しさっていうのも考えたことがないんだよ。気がついたらミュージシャンになっていたしね。そもそも僕は1970年に高校を卒業したんだけど、学校とか周囲にロックが好きなヤツなんてほとんどいなくてね。でも、卒業後、引きこもりだったのが音楽活動を通じていきなりいろんな人と出会って、それまで聴きたくてもなかなか聴けなかったいろんな音楽を知ることになって、そこからだね。

―ご自分の中で東京の生活と音楽との接点が次々と生まれてきた。
S:そう、その最初が渋谷の百軒店(ひゃっけんだな)ね。

―老舗ロック喫茶である『BYG』がある界隈。はっぴいえんど〜初期ムーンライダーズの拠点にもなった場所ですね。
S:そう。なんてことなく『BYG』に毎日入り浸って、月1回くらいライヴをするってそんな生活だったね。他にもあの界隈にはロック喫茶が多くあったし、ヤマハがあったから楽器も見に行けた。それに、今じゃ信じられないだろうけど、洋服屋さんもたくさんあったんだよ。コンバースのシューズとか、割とそこでしか買えないものも結構あって、要はこの界隈ですべて事足りてしまったんだ。

―具体的な当時のエピソードとかありますか?
S:よく覚えているのはツェッペリンが来日した時のことだね。『BYG』って地下と1階、2階とに分かれてて、俺たちは地下の客だったの。地下っていうのはライヴ・ハウスがあるのと、ミュージシャンズ・ミュージシャンな音楽がかかるところで。で、1階、2階ってのはハード・ロックの客がいるところなんだけど、ツェッペリンが来日した時、1、2階は誰も客がいなかったの(笑)。みんな見に行っちゃったから。で、地下はいっぱい客がいるの。そういう派閥があってね。服装が違うからすぐわかるんだけどさ(笑)。

―慶一さんたち“地下組”はツェッペリンは見に行かなかったのですか。
S:意地があったからね〜(笑)。だってツェッペリンのファースト、セカンドはすごく好きだったもん。でも、“見に行きたいな”って思っても周りを見ちゃうんだよ。友人関係をね。せっかくバンド活動を始めて、うまく行ってるのに、ここでひとりツェッペリンを見に行っちゃうと“浮くな”と思うわけだ(笑)。どっちかと言えばセクト主義(笑)。実際、1、2階組には知りあいとか全然いなかったしね。で、そうこうしている間に、高円寺に行ったりして。最初に結成した“はちみつぱい”に参加してくる和田(博巳)くんが経営していた店(ロック喫茶)『ムービン』が高円寺にあったの。そこにあったレコードと和田くんが持っていたレコードを聴くことが楽しみでね。そのために高円寺に通っていた、みたいなところがあった。コーヒー代も払わずにレコードが聴ける場所って素晴らしい!って(笑)。


1951年東京大田区生まれ。71年にはちみつぱいとして音楽活動を開始。74年に解散するも、翌年、実弟・鈴木博文らとムーンライダーズを結成。以降今日に至るまで、日本最古参の現役バンドとして20枚以上のアルバムを発表している。映画『座頭市』のサントラ制作などのソロ活動やプロデュース仕事、楽曲提供も多い。
オフィシャルHP→www.keiichisuzuki.com



ムーンライダーズ
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(問)www.moonriders.net



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