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FLOWER TRAVELLIN’ BAND(以下FTB)。日本に「ロック」というジャンルが定着すらしていなかった1970代初頭、すでにロックバンドとして全盛期を迎えていた。カナダ・ツアーを成功させるなど、アーティストの海外進出の先駆者ともなったバンドが活動を停止してから35年。メンバー全員が60代を迎えて再始動する彼らが、35年前に途切れた夢の続きを見させてくれる。
撮影:堀清英 構成:松木事務所/山下尚史

―まず、35年ぶりの活動再開に到るまでの経緯、これにはそれなりの理由があるのでは?
ジョー山中氏(以下JY):そうだね。まず今回は巷で言われているような、いわゆる“再結成”ではなくて“再始動”。35年前に解散したわけではなくて、各々自分の可能性というものに挑戦するために、いったんバンドとしての活動を停止した。だから再始動なんですよ。まあ、そういった話はこれまでも年に何回かは舞い込んでくるものだったけど、自発的じゃないっていうかそこまでの熱意が沸き上がってこなかったんだよね。でも今回は、俺を含めた当時のメンバーやスタッフの強い思いがあってね。やっぱり俺たちは年齢的にも最後だと思うし、どうせ再始動するなら懐かしいだけで終わるんじゃなくて、35年ぶりにしっかりとアルバムを出そうじゃないか、と。一夜だけとかはありがちだけど、毎年必ず1枚はアルバムを出して、本当に活動を再開する。その決意を知らしめるためにも、一発目の「FUJI ROCK FESTIVAL」は凄く重要な位置づけのフェスなんだよね。
―実際に35年ぶりに集結してみて、いかがでしたか?
JY:活動停止して以来、俺はソロでやってたし、他のメンバーもそれぞれアーティストとして活動してたけど、ジュン(=小林ジュン氏:B)はビジネスマンとしてカナダに拠点を移してたんだ。趣味で弾いてはいただろうけどアーティストとしては35年間活動してないわけ。でも集まって、いざ音出しをしてみたら全然普通、何も違和感が無かったね。35年間一緒に音出ししてないっていうのが分からないくらい普通に入っていけた。まるで35年前の、その次の日が今日だったみたいな感覚。出してるサウンドも同じ匂い。実際に音のキーやテンションを変えないで『SATORI』なんかも歌えるわけだし。だから皆ただ者じゃないよね。例えば「最近声が出なくて」とか「あのノリじゃツラい」って曲調変えたりキー下げたりしたら、それは違う曲になっちゃうじゃない。それが維持できてるわけだし、だから余計にブランクも感じないよね。やっぱりこのメンバーが集まると、自然にFTBになるんだよ。
―35年ぶりですから、メンバーの方々も感慨深いものがあるんじゃないでしょうか?
JY:メンバーそれぞれとは実際会ったり、メールとかで連絡は取り合ったりしてた。やっぱり色んな話をすると、その話が35年前から続いてたりね。ジュンとはメールが多かったけど、「最近、昔の夢をよく見るんだ」なんて言ってたり。俺たちも歳をとったのかな、なんて笑ったりもしてたけど、若い頃に皆で合宿したり、同じ釜の飯を食ってたわけですから。それがこの歳になってこういう事ができて、若い頃と同じ夢を見ることができる。60代でこんなにヘビーな音を出すバンドなんて他にないんじゃないかな。しかも日本だけじゃなくて、インターナショナルでも活動を続けようっていう事なんだからね。それは皆、凄く嬉しいんじゃないかな。石間君(=石間秀機氏:Sitarla)に言わせると「これは天からのプレゼントだ」って。俺もホントにそう思うよ。

―当時、日本では“ロック”というジャンルが認識されていない時代でしたが、メンバーの意識はどうでしたか?
JY:当時は日本のロックの、ホントに創生期だった。草ぼうぼうの中に割って入って行くようなものだよね。そもそも、それ以前にお手本となるようなバンドがいなかったんだから。ロックと言えば洋盤しかなかったから、俺たちは洋楽扱いだったよ。元々、裕也さん(=内田裕也氏:結成当時のプロデューサー)がインターナショナルで通用するバンドを創りたいっていう想いから結成されたんだけど、やっぱり最初は海外のコピーが多かった。でも、海外進出は初めのうちから頭にあったことだから、やっぱりオリジナルじゃないとね。そういう経緯もあるから、オリジナルの楽曲は全て英語の歌詞。それも誰もやってなかった。昔は海外に対して、皆ある種のコンプレックスがあったじゃない。ロックだけじゃなくて、ポップスにしてもね。でも俺たちは考える前に行動、俺たち自身が希望や野望を持ってやってたから関係ない。やらなければ始まらないし、今やりたい事なんだから迎合もしない。後は皆さん、ついてきてくださいねって感じだったよ。
―結成したその年にカナダへ。カナダでの経験はどんなものでしたか?
JY:大阪万博でカナダのLighthouseっていうロックバンドと知り合って、「俺たちのオープニングアクトでカナダに来ないか?」って誘われたのがきっかけだった。社交辞令かとも思ったけど、ほら、考える前に行動だから。行くからにはちゃんとした形で活動したかったから、ミュージシャンのユニオン(組合)に入ってね。でも入るまでに6ヶ月もかかって、その間は仕事ができないから無収入。来たる日に備えての曲作りの毎日で、もの凄く充実してたけど、お金の面では大変だったね(笑)。でも皆若いし、お金の問題じゃないって気持ちだったよ。それで、向こうで初めてのライブは、3万人ぐらいのオーディエンスだった。やっぱり皆ノリがよくて、最後なんかアンコールの嵐。楽屋に戻ったらレコード会社の人間から即、声をかけてもらってね。それでリリースしたのが『SATORI』。タイトルを英訳すれば「enlightenment」って単語だけど、カナダやアメリカでもSATORIで通じる。禅=ZENと一緒だよね。俺たちは外人受けを狙うために行ったんじゃないし、「日本から海外に向けてやっている」っていう確固とした意志があったからね、凄く良いネーミングだったよ。それに楽曲は『SATORI』だったり『HIROSHIMA』だったり、テーマが重いじゃない。あまりミーハーなイメージを持たれずに、向こうのインテリ層にも受けたのは、それも原因としてあるんじゃないかな。結局カナダには2年近くいたね。
―その頃、海の向こうの日本についてはどう思っていましたか?
JY:その当時は今みたいに便利な時代じゃなかったから、インターネットもないし、国際電話だってバカ高い値段だったしね。だから日本の情報なんてほとんど無かったよ。あえて知ろうとも思わなかったし、海外に勝負しに行ってるんだからね。それにビルボードやキャッシュボックスなんかで、俺たちの情報や評価は自然と伝わるって思ってたから。日本の人たちの中にもFTBの事を気にかけているヤツもいるだろう、ぐらいの感じで。カナダでリリースした『MADE IN JAPAN』ってアルバムは、カナダで初めてのライブの様子が新聞記事になったんだけど、その記事がそのままジャケットになってる。カナダから日本に、FTBの近況を送りつけるっていう意味も込めて作ったんだよね。

