
Tour『湘南海物語 オヤジ達の伝説』
永遠の若大将、加山雄三と60年代から活躍を続けるG.S.の人気グループ、加瀬邦彦&ザ・ワイルドワンズが、元祖湘南サウンドを引っさげて5月から始まったコンサート・ツアー「湘南 海 物語 オヤジ達の伝説」は各会場ソールドアウトの人気を博し、2009年秋まで全国各地で予定されている。
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加山雄三with ザ・ワイルドワンズ コンサートツアー記念アルバム発売!

『湘南 海 物語 オヤジ達の伝説』
加山雄三/ザ・ワイルドワンズ
発売日: 2008年9月10日(水) MUCD-1186/7 CD2枚組 ¥3,500(税込)
このアルバムは、同コンサート・ツアーを記念して発売する、コンサートの演奏曲目のレコード音源をプログラム順にすべて収録した加山雄三/ザ・ワイルドワンズのベスト・コンピレーション。ザ・ワイルドワンズがコーラスで参加した新曲「風を見たいか」と「サライ」のニューバージョンを収録。新曲は9月から同コンサートで演奏される予定。
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加山さんの銀幕デビューは1960(昭和35)年のこと。若大将シリーズは1961年の『大学の若大将』から1971(昭和46)年の『若大将対青大将』と10年間で17作品作られた(1981年『帰って来た若大将』を含まず)。もちろんそれ以外にも数多くの映画に出演している。

―当時、音楽の道へ行くっていうお考えはなかったんですか。
YK:ないです。一切ない。
―では、俳優として、歌も歌うという選択もあったのでは?
YK:それも全然考えていないよ。
―デビューから若大将シリーズまでのいきさつを教えてください。
YK:東宝に入社してすぐに俳優座の講師の先生が来て、2カ月間特訓をして、すぐに映画に出されたわけですが、それが『男対男』(1960年公開)という、三船敏郎さんと池部良さんの映画です。当時、東宝は青春ものを得意としていたらしく、岡本喜八監督の『大学の山賊たち』とかね、佐藤允だとか、あとは久保明とかね、それから江原達怡とか、そういった俳優さんで学生のいわゆる青春ものを、ある種、1つのジャンルでやっていた。オレは日本の映画はあまり見たことがなかったから。見ていたのはチャンバラ、それから、洋画の西部劇とかそんなのばっかりだったんで青春ものがあるとかは、全然知らなかった。で、あるとき、プロデューサーの藤本真澄さんが、加山雄三っていう新人が来たと、じゃあ何かやろうということになって。そのときに、昔、松竹に『若旦那シリーズ』ってのがあって、それにヒントを得て、若旦那じゃしょうがないから、若大将にしたいって言って、そのタイトルをつけたんだ、いわゆる学園もののヒーローをつくろうじゃないかと。で、でき上がったのが若大将。
―映画のなかで歌うということはどうでしたか?
YK:1作目にやっぱり歌が必要だろうってんで、歌わされたんだけど、「もう、くだらない歌を歌わせやがって、このやろう」と思ってね(笑)。なんで、こんな歌をオレが歌わなきゃいけねえんだよって。だっせぇと思いながら、レコーディングさせられた。
―嫌だったんですか?
YK:誰かが作曲した若大将の主題歌みたいなのが、“格好悪いので”歌うのが嫌だから、「自分で作った歌がありますから」って申し出て、「DEDICATED(恋は紅いバラの原曲)」っていう英語で作詞作曲した曲をギターでデモテープにして提出した。すると「絶対これ使いましょう」って、その後『ハワイの若大将』(1963年)で「恋は紅いバラ」となって歌うことになった。そしたら25万枚ヒットしちゃったんだよ。そのあとがもう大変だよ。総攻撃食らって(笑)。「恋は紅いバラ」やれ、もっとよくて、同じようなのでいいから、もっといいのを作ってくれとかね。それで結局、歌わざるを得ないような状況になってしまった。『若大将』シリーズってのは、音楽あり、スポーツあり、色恋ありのっていって、まあ何か、30年先の理想的なヒーローみたいな、そんなものを表現したかったのが、音楽でも何かできちゃったんだな(笑)。
―加山さんは俳優として『椿三十郎』(1962年公開)の出演によって映画を本気でやる気になったっていう記事を読んだことがありますが、それは本当ですか?

YK:『赤ひげ』と2つですね。とにかく、僕は入社したての頃は俳優という職業をサラリーマン的な感覚でやっているだけの気持ちだった。それで、あんまりおもしろくないから、いつやめようかなと、そればかり考えていた。で、若大将が始まって1本だけだと思ったら、2本やる3本やるって、なんだ、いつまでやるんだ!って(笑)。これは本当に参ったなと思っていたっていう状況ですね。その中で、黒澤明さんに拾われたっていうか、キャスティングの中に入れてもらって、初めて黒澤組なるものに入ったんだけど、黒澤さんの映画に入ったときには、他の映画には一切出演させないというか、ほとんど黒澤さんに集中しなくちゃならなくなるわけ。
―何かが大きく変わっていくわけですね。
YK:黒澤明監督という人間性に触れたときに、こんなにすごい人が世の中にいるんだって驚いた。人間の生きざまのリアリズムについての考え方に対しての感性が、ものすごく鋭くて、「現実のリアリズムと映画の中のリアリズムってものは違うんだ、表現っていうことがあるから」と。それから時間の流れの中でどうなっていくかとか、そういうことの話が大好きでね、オレはもう事あるごとに何か、先生がちょっとでもどこかでしゃべっているのを聞きかじるようにしていた。先生が演出しているのを見ていて、今まで考え方が甘かったなというぐらい考えさせられたり、反省させられたり、それから本当に考え直したですね。それで、でき上がった映画を見たときに、こんなに娯楽に富んでいておもしろくて、しかもリアリズムがある。「へえー、やっぱりすげえな、この人」って思って。これはもう、こういうことができる世界だったら、この世界に残ろうと、もう動き始めたんだ。心がね。
―加山さんが25歳の頃のお話ですね。
YK:『椿三十郎』のあと『赤ひげ』(1965年公開)に入って。その中で、オレの保本登っていう役(野心あふれる長崎留学帰りの青年医師)が、赤ひげ(三船敏郎)っていう、ものすごい先生と出会して、養生所はなんて汚ないところだと最初はバカにして、自分は御典医になるんだって偉そうなこと言っている。これが加山雄三と黒澤明と、保本登と赤ひげ先生とが何かダブったような気になって、黒澤さんから見抜かれているような気持ちだった。それは、うちの親父も有名だった俳優で、昔は大スター、やっぱプライドが高いし、その息子ですから生意気なところもあるわけよ。そういうのを、役柄の中で、ピタッとはめられているっていうのが、キャスティングの妙味というか黒澤さんの鋭さ。それで「おまえは余計なことを考えなくてよし。白紙でいいからね」って言われ。黒澤さんは引き出しから「こんな芝居はどうだ」と言うような人ではなく、むしろそんなことが大嫌いな人。「そんな引き出しから出すような生き方するようなやつがどこにいる」って言って、ものすごい勢いで怒る。この経験の中で、オレは映画に自分の生きる道を置こうと決心した。そこから、どんな内容の作品であっても自分の職業として、いつかまた素晴らしいものに出会うこともあるだろうという気持ちで、頑張るしかないなと思った。
―三船敏郎さんとはいかがだったのですか?
YK:三船さんっていうのは豪快な人。しゃべり方やなんかでね。それから体も鍛えていた。世界的にメキシコとの合作映画に出たり、『羅生門』で賞を取った大スター。初めて黒澤作品に出たときに、三船さんはお酒が強いから、強くなんなきゃと当時はあまり飲めなかったお酒を飲んで、一生懸命、ガッガッと酒を覚えたんですよ(笑)。つまり、偉くなるには酒が強くないといけないなんて思わせるほど、三船さんは迫力がありましたよ。

―また、音楽の話に戻ります。「君といつまでも」や「夜空の星」はピアノで作って、「旅人よ」「夕陽は赤く」はギターで。楽器を使い分けて作曲しているのですか?
YK:頭の中に自然に湧いてくるメロディっていうのは、楽器とか雰囲気とか、そのときの気持ちとか、それによって全然違ったものになるんだな。「海 その愛」とか、それから「ぼくの妹よ」も「君といつまでも」だとか、ああいったスローなものはやっぱりピアノ。「母よ」なんかもね。スローバラードな曲は、ピアノを弾いていると何となくコードと一緒にメロディが出てくる。ギターでの作曲は、リズムを刻む、割合とテンポのあるものが多いね。
―1966年は「夕陽は赤く」、「蒼い星くず」、「まだ見ぬ恋人」、「旅人よ」、「夜空を仰いで」と大ヒットがいっぱいあった年ですが?
YK:ああ、そうなんだ。66年?……。これはニーズがあったっていうことだね。作ってそれが全部レコードになるという体制にあったことと、若大将っていう映画とシンクロしてそれが売れるから作ったということだと思う。当時僕はね、作りたくなきゃ作らなかった。ただ、それこそ粗製乱造と言われたら困るけれども、一番すごいときにはね、30分で5曲ぐらい作っちゃうことがあった。できるんですよ、やろうと思ったら(笑)。
―作曲なさるときは「よし、作るぞ」っていう感じなんですか?
YK:そういうのは、だめね。こもって一生懸命になって書こうと思ってやっているときって、全然いいメロディが出ない。それよりもふっと、どうかした拍子に、ふっとギター持ってやりだすとバーっと出てくる。こういうのがあとでもって「あれ、いいな」と言われてるね。



