

インタビュー 新宿『DUG』中平穂積
エッセイ3 椎根和
エッセイ2 後藤健夫
エッセイ1 片岡義男
相倉久人×菊地成孔 「植草甚一とマイルス・デイヴィス、そしてジャズ」 後編
相倉久人×菊地成孔 「植草甚一とマイルス・デイヴィス、そしてジャズ」 前編
エッセイ3 椎根和
エッセイ2 後藤健夫
エッセイ1 片岡義男
相倉久人×菊地成孔 「植草甚一とマイルス・デイヴィス、そしてジャズ」 後編
相倉久人×菊地成孔 「植草甚一とマイルス・デイヴィス、そしてジャズ」 前編
片岡義男 Yoshio Kataoka 作家
1940年(昭和15年)東京都生まれ。早稲田大学卒業。大学在学中より雑誌ライターとして活動を開始。植草甚一らと共に草創期の「宝島」に携わる。74年『白い波の荒野へ』で作家としてデビュー。80年代に雑誌「POPEYE」などでエッセイを発表。また、多くの短編小説を書き、FMラジオの深夜放送のパーソナリティを務めた。著書に『スローなブギにしてくれ』『メイン・テーマ』『白いプラスティックのフォーク 食は自分を作ったか』など多数。写真家とても活躍している。
1940年(昭和15年)東京都生まれ。早稲田大学卒業。大学在学中より雑誌ライターとして活動を開始。植草甚一らと共に草創期の「宝島」に携わる。74年『白い波の荒野へ』で作家としてデビュー。80年代に雑誌「POPEYE」などでエッセイを発表。また、多くの短編小説を書き、FMラジオの深夜放送のパーソナリティを務めた。著書に『スローなブギにしてくれ』『メイン・テーマ』『白いプラスティックのフォーク 食は自分を作ったか』など多数。写真家とても活躍している。
一九七三年、あるいは七四年、ひょっとしたら七五年だったかもしれないが、ある日の午後、世田谷区経堂にあった植草さんの自宅を僕はひとりで訪ねた。小田急線のすぐ脇の戦前からの木造平屋建ての家が自宅だった頃だ。植草さんが責任編集者をしていた『ワンダーランド』という雑誌に僕も参加していた時期だから、きっとその用事で出向いたのだろう。
玄関から書斎の部屋まで、廊下の両側にはうず高く本が積み上げられていた。人がとおるスペースは幅三十センチほどしかなく、そこは床に穴があいてますから端を歩いてください、と植草さんは指さして注意してくれたが、歩ける幅は三十センチだから端というものはあり得ず、ここだろうなと見当をつけた穴はまたぐほかなかった。

書斎のなかは完全に本の山で、それに囲まれて小さなすわり机と座布団があり、そこが植草さんの定位置だった。おすわりなさいと言われてもすわる場所はなかったから、ちょうどいい高さに積んであった大きな画集や写真集の上に腰を下ろした。植草さんの周囲にある本の山々の頂上ごしに、庭の向こうを走る小田急線の電車の屋根が見えた。
すわり机に向かって小さくあぐらをかいた植草さんのかたわらに、ホレス・シルヴァー・クインテットによる『ザ・トーキョー・ブルース』というブルー・ノートのLPが一枚だけあった。僕の視線がそれをとらえるのを見た植草さんは、「ちょいと気になって、出して来て見てたのです」と言った。リード・マイルスがデザインしたジャケットで、着物姿の日本女性をひとりずつ両脇にしたホレス・シルヴシァーは、両手に花の状態で日本庭園の岩にすわっている。「どこで撮ったんでしょうねえ」と、柔和だけど意味のニュアンスはかなり複雑な微笑を浮かべて、植草さんは独り言のように言った。ニューヨークのどこかにある日本庭園で、現地で働く日本女性にモデルを務めてもらって撮った写真だ、ということを僕はどこかで読んだ。国内盤についている日本語のライナーではなかったか。
一九六二年の暮れにホレスのクインテットは日本へ来た。東京を中心に各地を演奏旅行し、どこでも純粋な熱意あふれた歓待を受けた。戦後からずっと日本国内で続いていた、外国の最新情報に関する鎖国に近い状態は、一九五十年代の後半から、少しずつ解かれていった。ポピュラー音楽に関して言うなら、外国からいろんな演奏家や歌手たちが、日本へ来て公演をするようになったからだ。一九六十年代になるとモダン・ジャズの人たちが頻繁に日本へ来るようになり、鎖国には大きな窓が開いた。
日本で受けた深く好ましい印象を核のようにして生まれたのが、『トゥー・マッチ・サケ』『ああ、そう』『サヨナラ・ブルース』『トウキョウ・ブルース』など、五曲で構成されたこのLPだ。一九六三年あるいは六四年に発売された。日本では西田佐知子のヒット歌謡『東京ブルース』と重なっているが、そのことに僕が雑談として触れたら、「はあ、知りません」と植草さんは言っていた。あの歌を植草さんは知らなかったけれど、ホレス・シルヴァー・クインテットの『東京ブルース』は、発売からおよそ十年後にも、「ちょいと気になって」いたのだ。
東京そして日本各地で体験した数多くの感銘をもとにしているはずなのだが、『東京ブルース』に日本や東京を感じるのはかなり難しい。おしまいの部分でドラのように聴こえるシンバル、そしてピアノによるメロディの断片などに、チャイナ趣味やオリエンタル風味などと呼ばれてずっと機能してきた定型を、聴くことが出来る。植草さんが気になっていたのは、ここかもしれない、といま僕は推測を楽しむ。気になるのはどのようなことなのか、LPを再生して聴かせてもらいたいとそのときの僕は思ったのだが、本が山積みとなったその六畳の部屋は、オーディオ装置はなかった。モダン・ジャズのLPを、その頃の植草さんはほとんど聴かなくなっていたのではないだろうか。
一九四三年にペルーのリマで生まれ、モダン・ジャズのピアノ奏者として六十年代に活躍した、ハイメ・デルガート・アパリチオという男性が、一九六四年にベースとドラムスのトリオで作ったLPのなかに、ホレスの『東京ブルース』なかにある『サヨナラ・ブルース』が収録されている。ボサ・ノヴァ風味の素晴らしいモダン・ジャズだ。ニューヨークでホレスと知り合ったハイメがこの曲を気に入り、自身のトリオ演奏でLPに残した。『枯れ葉』を絵に描いたようなモダン・ジャズにした演奏も入っていて、僕の好きなLPの一枚だ。植草さんにこのLPの話をしたら、頭を軽く片方に傾げて感心したような表情になるという、何度となく見たあの愛すべきマナリズムとともに、「聴いてみたいです」という言葉を僕は受けとめたのだったが。
すわり机に向かって小さくあぐらをかいた植草さんのかたわらに、ホレス・シルヴァー・クインテットによる『ザ・トーキョー・ブルース』というブルー・ノートのLPが一枚だけあった。僕の視線がそれをとらえるのを見た植草さんは、「ちょいと気になって、出して来て見てたのです」と言った。リード・マイルスがデザインしたジャケットで、着物姿の日本女性をひとりずつ両脇にしたホレス・シルヴシァーは、両手に花の状態で日本庭園の岩にすわっている。「どこで撮ったんでしょうねえ」と、柔和だけど意味のニュアンスはかなり複雑な微笑を浮かべて、植草さんは独り言のように言った。ニューヨークのどこかにある日本庭園で、現地で働く日本女性にモデルを務めてもらって撮った写真だ、ということを僕はどこかで読んだ。国内盤についている日本語のライナーではなかったか。
一九六二年の暮れにホレスのクインテットは日本へ来た。東京を中心に各地を演奏旅行し、どこでも純粋な熱意あふれた歓待を受けた。戦後からずっと日本国内で続いていた、外国の最新情報に関する鎖国に近い状態は、一九五十年代の後半から、少しずつ解かれていった。ポピュラー音楽に関して言うなら、外国からいろんな演奏家や歌手たちが、日本へ来て公演をするようになったからだ。一九六十年代になるとモダン・ジャズの人たちが頻繁に日本へ来るようになり、鎖国には大きな窓が開いた。
日本で受けた深く好ましい印象を核のようにして生まれたのが、『トゥー・マッチ・サケ』『ああ、そう』『サヨナラ・ブルース』『トウキョウ・ブルース』など、五曲で構成されたこのLPだ。一九六三年あるいは六四年に発売された。日本では西田佐知子のヒット歌謡『東京ブルース』と重なっているが、そのことに僕が雑談として触れたら、「はあ、知りません」と植草さんは言っていた。あの歌を植草さんは知らなかったけれど、ホレス・シルヴァー・クインテットの『東京ブルース』は、発売からおよそ十年後にも、「ちょいと気になって」いたのだ。
東京そして日本各地で体験した数多くの感銘をもとにしているはずなのだが、『東京ブルース』に日本や東京を感じるのはかなり難しい。おしまいの部分でドラのように聴こえるシンバル、そしてピアノによるメロディの断片などに、チャイナ趣味やオリエンタル風味などと呼ばれてずっと機能してきた定型を、聴くことが出来る。植草さんが気になっていたのは、ここかもしれない、といま僕は推測を楽しむ。気になるのはどのようなことなのか、LPを再生して聴かせてもらいたいとそのときの僕は思ったのだが、本が山積みとなったその六畳の部屋は、オーディオ装置はなかった。モダン・ジャズのLPを、その頃の植草さんはほとんど聴かなくなっていたのではないだろうか。
一九四三年にペルーのリマで生まれ、モダン・ジャズのピアノ奏者として六十年代に活躍した、ハイメ・デルガート・アパリチオという男性が、一九六四年にベースとドラムスのトリオで作ったLPのなかに、ホレスの『東京ブルース』なかにある『サヨナラ・ブルース』が収録されている。ボサ・ノヴァ風味の素晴らしいモダン・ジャズだ。ニューヨークでホレスと知り合ったハイメがこの曲を気に入り、自身のトリオ演奏でLPに残した。『枯れ葉』を絵に描いたようなモダン・ジャズにした演奏も入っていて、僕の好きなLPの一枚だ。植草さんにこのLPの話をしたら、頭を軽く片方に傾げて感心したような表情になるという、何度となく見たあの愛すべきマナリズムとともに、「聴いてみたいです」という言葉を僕は受けとめたのだったが。

