大人のジャズ ホセ・ジェイムズインタビュー
 DJとしてクラブシーンでカリスマ的な人気を誇るジャイルズ・ピーターソンが 主宰するレーベル、ブラウンズウッド・レコーディングスからこの1月、注目のジャズ・シンガーがデビューした。ピーターソンが「15年にひとりの逸材」とほれ込む28歳の若者の名はホセ・ジェイムズ。この春に緊急来日したホセに、そのキャリアや音楽観、新作『ザ・ドリーマー』についてインタビューした。

インタビュー・文/中安亜都子 写真/上河邊敦 
 
ジャイルス・ピーターソンが作り出した“新しいジャズの流れ”の切り札
 世界的なDJ、ジャイルス・ピーターソンが主宰するレーベル、ブラウンズウッド・レコーディングスからデビューしたホセ・ジェイムズは、ジャズを基本にヒップホップ、R&Bのセンスを融合した独自のシンギング・スタイルを持つシンガーだ。野球帽にスポーツ・ウェアを着た彼がアート・ブレイキー&ジャズ・メッセンジャーズの「モーニン」をステージで熱唱する姿は、ジャズヴォーカルの新しい個性が登場したことを思わせる。
 彼はミネアポリス出身。パナマ出身でサックス奏者の父とアイルランド系の母のもとに生まれた。14歳の時にデューク・エリントンの「A列車で行こう」を聴いたことがきっかけで、ジャズに関心を持つようになり、コルトレーンらジャズの巨匠たちを聴くようになった。また同時にチャートを賑わせるボーイズⅡメンなどのR&Bをはじめ、ニルヴァーナのロックなど様々な音楽も聴いていたが、ヒップホップのア・トライブ・コールド・クエストやディゲイブル・プラネッツにジャズの要素を見いだし、それがきっかけでセロニアス・モンクのサンプリング・ソースを入手。そのソースを聴くことでさらにジャズに興味を持つようになった彼は、次第にジャズ・シンガーを目指すようになった。
 ホセは語る。「ジャズはポップスよりも深い音楽だと思う。とてもエモーショナルだしね。人生を託すにはこの音楽がぼくには一番合っていると思ってジャズを選んだ」やがて故郷のミネアポリスからワシントンDC、ニューヨークと住まいを移し、デビューのチャンスを狙っていたが、アメリカではなかなか芽が出ない。転機が訪れたのは、2006年に行われた国際ジャズ・コンペティションに参加するためロンドンに行ってからのことだった。
 「ロンドンに行ってすべてが一変した。アート・アンサンブル・オブ・シカゴのフライヤーを見て、カムデンタウンにあるジャズ・カフェに行って驚いた。普通のジャズ・クラブだと思っていたら、デイヴ・シャペルからデ・ラ・ソウルのようなヒップホップ、さらにはアフリカ系のミュージシャンたちの名前が出演ラインナップにあった。こんな面白いことがロンドンでは起こっているんだとショックを受けたよ。ニューヨークのクラブではあり得ないからね」
 ジャズ・カフェは、かつてジャイルス・ピーターソンが60年代や70年代のジャズをさかんにターンテーブルでまわしていたクラブ。彼のDJプレイと、90年代にロンドンを中心に起こった音楽ムーヴメントは密接な関係がある。それはジャズを再構築する試みであり、そこからアシッド・ジャズが生まれ、その流れは現在のクラブ・ジャズへと受け継がれている。ロンドンに行く以前はピーターソンについては、コンパイルしたCDを持っていた程度で、アメリカではさほどの情報はなかったようだ。「彼に会うことはそう簡単ではないと思った。ジャイルスは業界のセレブだし、常に忙しい。たくさんの人が彼に会いたがっていたからね。ぼくの音源を渡したけれど、聴いてもらえるかどうかわからなかった。でも彼はちょうど、レーベルを設立しようとしていた時だった。ニューヨークに帰ったら、突然彼からメールが来て、君の曲を気に入った、アルバムを作らないかと言ってきた。とても驚いたね。なんだかまるでハリウッドのサクセス・ストーリーのヒーローになった気分だったよ(笑)」
 アメリカでは芽が出なかった才能は、ロンドンに行くことで開花することが出来た。つまり彼はヨーロッパで「発見」されたといえるだろう。ピーターソンは80年代末年代にレーベル、アシッド・ジャズを立ち上げ、ここからブラン・ニュー・ヘヴィーズがデビュー、90年代にはヤング・ディサイプルズ、インコグニート、コートニー・パインらを輩出したトーキング・ラウドを立ち上げている。また自身のラジオ局では、ジャンルにこだわらず彼のセンスで選んだ音楽を流すなど、ロンドンのストリート・カルチャーの盛り上がりに大きな影響を及ぼしてきた。ホセ・ジェイムズはピーターソン流の新しいジャズの切り札として迎えられたのである。


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