#63 ビートルズがいなかったらチェッカーズは続けられなかった (武内 享)
1.「俺はビートルズ・マニアとして、オークションは大嫌いなの。でも10年くらい前にNYとロンドンと東京をつないだ大きいオークションがあって、知り合いからカタログをもらって見たら、これが出てて。サインの言葉が格好いい。Thanks for your blood。すげぇ感動して、これ欲しい! もう1枚、ジョンの『トゥー・ヴァージンズ』のサイン入りとのセット。でも取材も来るらしいから目立つのが恥ずかしくて、知り合いにある金額を提示して、"ここまでだったら出すから頼む"。そしたらNYのコレクターと一騎打ちになって、そいつは引けなくなったらしくて、どんどん乗っけていって(笑)。で、"落としました!"って連絡が来たから"ありがとう!"って言ったら"…すみません、引くに引けずに予算の倍になっちゃいました、差額は俺が出します"。気持ちはわかるからもちろん俺が出した。だからカミさんには金額をいまだに言ってない(笑)。額装は自分でした。1回だけ針を落として、"ありがとうございます"。ジョンが手にしたものが家にあるっていう、それだけでもうお腹いっぱい」
2.落札した『ホワイト・アルバム』(写真1)にあるジョンのサインの部分。
もしビートルズがいなかったらチェッカーズは続けられていなかったと思う。アマチュアの頃はリーゼントで男のファンのほうが多いバンドだったのに、デビューしたらチェックの服着てあんな髪型させられて、ってときにやっぱ悩んだわけ。でもビートルズだってそうだったじゃん。リバプールやハンブルグでめちゃくちゃやってたバンドが、やりたいことをやるためにはまず売れなきゃいけないから、ってスーツ着せられてお行儀よくするよう言われて、カバーがいっぱい入ってるアルバムから徐々にオリジナルになっていく。チェッカーズもそうしよう、まず売れないと何もできない。そう思えたのは、間違いなくビートルズがあったから。他のメンバーはビートルズはそこそこ知ってるくらいなんだけど、俺がこの話をしたらみんなに響いたね。そうだよな、って。
ジョンのことは、勝手ながら親戚のお兄ちゃんみたいに思ってる。うちも母子家庭だったから環境が似てたし。あの人の自由奔放な生き方、あり方、デタラメさが好き。一回会って話してみたかった。亡くなってから神格化されちゃったじゃん。それがすげぇイヤでさ(笑)。あの人間らしさが好きなんだよ。ジョンの訃報を聴いた瞬間のことは今でも覚えてる。高校3年でバイトしてて、車で蒲鉾を運んでたの。ラジオがついてて臨時ニュースが入って、"ジョン・レノンが…"。田舎の踏み切りを渡る瞬間だったんだけど、そのシーンもはっきり覚えてる。えええ〜っ? どうすりゃいいんだ? って狼狽しちゃって。一生忘れられないな。今でもジョンの命日には、自分ひとりの時間を作ってジョンの曲を聴く。
ロンドンに初めて行ったのはCUTE BEAT CLUB BAND(チェッカーズの変名バンド)の仕事。ビートルズも出たアストリア・ホールでライブをやった。その後も何回か行って、最後に行ったのもビートルズの取材。かなり前になるけどBSでビートルズ特番を三夜くらいやったとき、リバプールのメンバーの家とかも回るっていうから"ギャラなんていらないから行きたい!"って。アビー・ロード・スタジオにはチェッカーズ時代に撮影で行った。でも中には入ってない。外の壁に自分の名前と"ここに参上!"って描いたら、アルフィーの坂崎さんか誰かに"見たぞ"って言われた(笑)。
ビートルズに関してはクールでいなきゃけない、っていつも思ってる自分がいる。今もそうだけど、線が切れたら止まらなくなるから(笑)。だからふだん友達にもビートルズの話はしない。でも本当に俺は、ビートルズがいなかったら今ここにいないってはっきり言える。一生、心の支えなんだよね。
取材・文/佐々木美夏
武内 享
ミュージシャン
1962年7月21日生まれ。福岡県田川市出身。83年チェッカーズのギタリスト兼リーダーとしてデビューし、数々のヒット曲を残す。93年に解散後はプロデューサー、プレイヤーとして小泉今日子、武田真治、ゴスペラーズ、ケミストリー等と関わり、映画や舞台の音楽監督もつとめる。現在はチェッカーズの楽器陣である大土井裕二、藤井尚之らとアブラーズというバンドで活動する一方、DJ、イベント・オーガナイザーとしてクラブ・シーンで活躍。音楽的な守備範囲はあらゆる分野に及ぶが、中でもB級昭和歌謡への造詣は奥深い。
オフィシャルサイト JAM COLONY






