2009.09.10UP
8月23日
8月16日まで文化村ザ・ミュージアムで開催されていた<だまし絵>展はなかなか面白かった。懐かしかったのは高松次郎の立体作品「遠近法のテーブル」、「影A」が出品されていたことだ。現代美術史で、高松も構成員だったハイ(高松)・レッド(赤瀬川原平)・センター(中西夏之)は、残された記録も多く、是非どこかで、<ハイ・レッド・センター>展を試みてほしい。卓越した思考家であった高松次郎論をだれか書いてくれ。
コンセプチャル・アートの傑作「この七つの文字」を見たければ、金沢市のジャズ喫茶<もっきりや>にいけばいい。保存状態はひどいが。
展示で驚かされたのは、福田美蘭の「壁面5°の拡がり」である。絵が額縁もろとも、壁面に5°の角度でスルリとすべり込んでいる。彼女の父の福田繁雄(出品作あり)共々、トリック命の親子である。
帰りに書店の文庫売り場をのぞくと、内田魯庵の『貘の舌』なる本が隅の方で目に入った。買うべし、とどことなくユーモラスな表紙の顔が言っている。了解しました、と早速レジヘ。ウエッジ文庫、知らない間に刊行が始まっていて、もしやと記憶をまさぐると、ニヤリとする服部滋の顔が魯庵の顔に透けてみえた。買うべし、のささやきは服部氏だったか。服部氏は、小生の処女作『映画の乳首、絵画の腓(こむら)』の編集担当者であった。鷹揚に構えて、じっくりと読み込む。小生のような痴性とは異なり正真正銘の知性である。彼がウエッジ文庫の仕掛け人である。

「日本人は何でも早熟だ。五十年で欧羅巴の文明を鵜呑みにして了ふほどに呑込が早い」
魯庵のこの褒め下げの絶妙。
暑かったので、なかなか足を運べなかったが、ようやく最終日に東京藝術大学大学美術館陳列館で開催されていた<彫刻 労働と不意打ち>展に駆け込む。労働と不意打ちというと、即座に浮かぶのはアプトン・シンクレアの『ジャングル』で、食肉解体労働の過酷の日々に悲劇の不意打ち連打。


ただ、<彫刻 労働と不意打ち>の不意打ちは、手を動かしている内に、不意に閃光として何かが手に舞い降りることだろう。<世界把握>の一瞬である。その<手のエクスタシー>があれば、人は彫刻労働に耐えられる。
確かに<彫刻>ほど、肉体酷使のアートの現場はない。特に大理石が相手の場合、石工と同じく腱鞘炎との戦いだ。鉄を扱う場合、アセチレン切断とか工事の現場との差はなかったりする。しかもアート流通の現場では、簡単に移動できるものではないので、森の<切株>扱い。個人の購入が狭い日本ではままならぬ。
人はなぜ彫刻という快感と苦難の道を?
原真一氏の大理石作品に、リンチの<耳>、マルセル・デュシャンの<1 水の落下 2 燈用ガス があたえられるとすれば>の裸体女性が彫り込まれていることに不穏な<不意打ち>があった。
