2009.10.02UP
9月8日(火)
フローベールの『ボヴァリー夫人』には、時代を超えた魅力がある。田舎医者シャルルと結婚したエマ・ボヴァリーが、凡庸な夫や単調な結婚生活に失望し、夢のようなロマンスを求めて情事や散財に耽り、自滅への道をたどる。
本来の自分とは違う自分を想像する能力、いわゆるボヴァリズムが生み出す悲劇は、いまの世の中のいたるところにある。さらにこの小説には、他にも実に興味深い人物が登場する。拝金主義の象徴ともいえる雑貨屋のルウルーは、エマの心を読み、散財に駆り立て、彼女の存在を完全に手形や金銭に置き換えていく。薬剤師のオメーは、シャルルを利用し、新聞というメディアを使って自分の名声を高めようとする。この物語は、エマやシャルルが陰謀の犠牲になっていく物語のように読むこともできる。
そして、アレクサンドル・ソクーロフが、ソ連が崩壊に向かう激動の時代に作り上げ、新たに再編集した『ボヴァリー夫人』にも、この監督の独自の解釈がある。

この映画では、三部で構成される原作のうちの一部と、そして二部の始まりの部分がすっぱりと切り捨てられている。エマはシャルルと結婚し、娘も生まれている。シャルルは、単調な結婚生活のなかでふさぎこむエマを心配して、新たな町ヨンヴィルに転居するのだが、そのヨンヴィルでの生活がすでに始まっていて、エマは、薬剤師のオメー、書記の青年レオン、雑貨屋のルウルーといった登場人物たちに取り囲まれている。
映画は何の説明もなくいきなり、空虚な生活を送るエマに、ルウルーがショールや扇子をしつこく勧める場面から始まる。窓の外には、切り崩され、岩肌が露出した山がそびえる荒涼とした風景が広がっている。すると今度は、パリに旅立つレオンがエマに別れを告げにくる。彼らの間にあったはずのプラトニックな関係は、エマがレオンに渡す贈り物だけで示唆される。孤独なエマは、使用人の治療のために夫を訪ねてきた伊達男ロドルフに出合い、不倫関係に陥っていく。
原作を読んでない人にはそんな人物関係が分かりづらいかもしれないが、ソクーロフは、キャラクターで物語を語ろうとはしていないので、問題はない。また、エマを演じるセシル・ゼルヴダキは、原作のエマのように美しくはないが、それも問題ではない。
この映画でまず印象に残るのは、エマの裸体であり、その背景となる自然と人工の対比だ。エマとロドルフは乗馬をきっかけに接近する。ふたりは馬で草原に行き、そこで全裸で交わる。ロドルフの思惑がどうであれ、エマの裸体は自然のなかで愛を感じる。だが、その自然は、すぐに失われていく。
シャルルが薬剤師オメーにそそのかされて試みる新しい治療法のエピソードとエマとロドルフの密会のエピソードが交互に描かれる場面には注目すべきだろう。シャルルとオメーは、足が変形している番人の男を強引に説得し、箱型の矯正器具を足にはめて、変形を治そうとする。だが治療は失敗し、番人は壊疽になり、切断を余儀なくされる。一方、ロドルフに激しく迫るエマは、愛し合わなければ自然が死に絶えてしまうと主張する。だがロドルフは、彼女の言葉に耳を傾けることなく去っていく。
この映画のなかのエマ、あるいは彼女の裸体は、矯正器具をはめられた番人の足に等しい。エマがいくら自然のなかでありのままの姿になることを求めても、ルウルーから届けられる服や装飾品に縛られていく。彼女はレオンとの再会を喜ぶが、ふたりはけばけばしく装飾された部屋で密会せざるをえない。借金の返済に窮した彼女が、ロドルフに救いを求めようとするとき、ふたりの背後では巨大な機械がうなりをあげている。エマは、人工的な力によってねじ曲げられ、押しつぶされていく。
映画の冒頭に流れる厳かな音楽の響きは、この映画がエマへのレクイエムであることを暗示している。エマとシャルルが食事をする場面では、ハエが飛び交い、エマとレオンが密会する場面でも、羽音が彼らにまとわりつく。エマはこの映画が始まったときからすでに腐敗しつつある。そんなヒロインの遺体は、彼女の希望によって、樫とマホガニーと鉄製の三つの棺のなかに納められる。彼女は自分の肉体を三重に封印することで、逃れられない世界から逃れようとしたと見ることもできる。
ソクーロフは、ペレストロイカやグラスノスチからソ連崩壊に至る激動の時期のこの映画を作った。彼がどんな思いでこの映画を作ったのかは定かではないが、フローベールの原作と同じように、この映画にも多様な解釈を可能にする奥深さがある。
