2009.09.16UP
8月21日(金)
『アモーレス・ペロス』、『21グラム』、『バベル』を生み出した監督アレハンドロ・ゴンサレス・イニャリトゥと脚本家ギジェルモ・アリアガのコンビに対する評価は高い。彼らの作品では、何らかの接点を持つ複数の物語が、断片化され、時間軸が操作され、再構築されている。そうした構成には新鮮なものを感じるし、映像にも力があると思うが、筆者はもうひとつ好きになれなかった。問題は、映像をどう切り、どう繋ぐかだ。
ジョン・カサヴェテスは、レイ・カーニーが編集した『ジョン・カサヴェテスは語る』(遠山純生・都筑はじめ訳/ビターズ・エンド/2000年)のなかで、編集についてこのように語っている。
「(編集は)大嫌いだ。ものすごい恐怖におそわれるんだ。ラッシュってのは、シーンからシーンへフィルムをつないだだけの長ったらしいものだけど、役者たちの演技を観れるし、物語もある。それが急に滑らかで見栄えやテンポのいいものになってしまう。でも多くの感情がそこから失われてしまうんだ。時間をかけて仲間たちが楽しんで作りあげた感情がね」
「観客に毎日の撮影の様子を観せて、役者たちの才能や感情を披露できたらなって思うよ。それは完成した映画よりずっと素晴らしく、観やすくて、完成した物語より観る価値のあるものだろう」
イニャリトゥ監督は、撮影に限れば、カサヴェテスに通じるものがある。しかしもう一方には、映像を切り刻むことを前提にしたスタイルがある。それは果たして両立しているのだろうか。『21グラム』では、ショーン・ペン、ベニチオ・デル・トロ、ナオミ・ワッツから生々しい感情、鬼気迫る演技が引き出されている。しかし、その映像を切り刻み、時間軸を操作して再構築した作品が、時間軸に沿った作品を超えているのかは疑問だ。
ウォン・カーウァイはストーリーを無視してカメラを回し、ストーリーというよりはエモーションで繋ぎ、独自の世界にまとめあげる。イニャリトゥは、独自のスタイルで緊迫した状況やエッジを生み出すが、筆者には、最終的にひとつの世界にまとめあげられているようには感じられない。


では、脚本家のアリアガが、監督にも進出した『あの日、欲望の大地で』はどうか。この映画でも、接点を持つ複数の物語が、断片化され、時間軸が操作され、再構築されている。
■シルビア(シャーリーズ・セロン)は、ポートランドにある高級レストランでマネージャーを務めている。店では仕事ができ、信頼されるマネージャーだが、ひとたび職場を離れると行きずりの男に身をまかせるような日々を送っている。
■ジーナ(キム・ベイシンガー)は、ニューメキシコ州の国境の町で、夫と4人の子供たちと暮らしている。一家は中睦まじく幸福に見えるが、ジーナは隣町に住むメキシコ人のニックとの情事にのめり込んでいく。
■マリアーナ(ジェニファー・ローレンス)は、母親を事故で亡くし、喪失感に苛まれている。事故が原因で憎みあうことになった家族の息子サンティアゴがそんなマリアーナに声をかけ、彼女は次第にサンティアゴに惹かれていく。
■少女マリアは、パイロットの父親と暮らしていたが、その父親が飛行機で農薬散布中に事故に遭う。父親は病院に担ぎ込まれ、マリアは顔も知らない母親に会いにいくことになる。
この映画は、一見するとイニャリトゥのスタイルと変わらないように見えるが、アリアガは映像をエモーションで繋いでいく。だから、登場人物の生死にかかわる劇的な場面が際立つのではなく、物語の繋がりが明らかになることによって、それらがバラバラだった段階に埋め込まれていたさり気ないシーンが再浮上してくる。
映画の冒頭で、男と過ごしたシルビアは、裸のまま窓際に立ち、ぼんやりと外を見ている。彼女は他人の視線などまったく気にしていない。彼女の心はどこか遠くにあるように見える。ジーナは無理をしてまでニックと会う時間を作るが、それが最後の一線であるかのように胸を見せることだけは拒みつづける。家族に隠れてサンティアゴと会うマリアーナは、なにかを自分に刻み込むかのように腕を炎にかざす。映画が終わったあとで、そういう場面で彼女たちがどんな思いを胸に秘めていたのかを想像し、読み取ろうとしている自分に気づくのだ。
