2009.07.03UP
6月12日(金)
『木靴の樹』のエルマンノ・オルミ監督が最後の劇映画として作り上げた『ポー川のひかり』は、前に取り上げたイタリア映画『湖のほとりで』とテーマや世界観は異なるが、同じように深い余韻が残り、心に染み入るような味わいがある。
だが物語は、そんな印象にはとても結びつきそうにない事件から始まる。原題の「百本の釘」は、その事件を示唆している。ヨーロッパ最古の大学、ボローニャ大学の図書館で、キリスト教関係の貴重な古文書の数々が、書棚から引き出され、太い釘で床や机に打ち付けられているのが発見される。書物の磔刑ともいうべきその光景には目を奪われる。

犯人は、将来を嘱望されていた若い哲学教授だった。彼はポー川の近くに車を乗り捨て、ジャケットや財布を川に投げ捨て、川のほとりの朽ちかけた小屋で、発表するはずだった論文を焼き、そこで生活を始める。やがて郵便配達の青年やパン屋の娘、付近で共同生活を送る老人たちが彼に関心を持ち、小屋の修繕を手伝い、風貌がどこかイエスを思わせる彼を「キリストさん」と呼び、その周りに集うようになる。
この物語には、「ぶどう酒の奇跡」や「放蕩息子の帰還」など新約聖書からの引用が盛り込まれている。官能的で哀しみを背負うパン屋の娘は、マグダラのマリアを想起させる。
しかし、筆者がまず何よりも興味をそそられるのはやはり冒頭の事件だ。図書館の古文書に人生を捧げてきた老齢の司教は、その光景にショックを受け、卒倒する。遅れて現れた女性検事は、不謹慎を承知で芸術作品のようだと表現する。
確かにそれは芸術と見ることもできるだろう。哲学教授は、磔刑という痛みを通して、書物を肉体化、人間化しようとした。彼が肉体を意識していることは、フラッシュバックでも暗示されている。事件の前に彼は、インド人の女子学生の宗教的な救済に関わる問いかけを、頭ではなく肉体で受け止めようとする。それは、図書館の奥に陣取る司教に対する反発を意味してもいる。
そして、書物を肉体化、人間化しようとすることは、痛みだけではなく、笑いとも結びついていく。デイヴィド・B・モリスがいうように、痛みと笑いは肉体を共通の背景として分かちあっている。哲学教授は人々との交流を通して、痛みと笑いを獲得する。老齢の司教に笑いはない。
そこで筆者が思い出すのは、ウンベルト・エーコの『薔薇の名前』(河島英昭訳/東京創元社、1990年)に登場する盲目の文書館長ホルヘのことだ。彼はなぜアリストテレスの喜劇論を恐れたのか。
「その書物からは、理想郷と変わらぬ豊かさを人間がこの地上に願ってもよいとする思想が、導き出されかねない」「何しろ教父たちは、あくまでも、大衆を永遠の生へと導き、胃袋や下腹部や食物や汚れた欲望から彼らを救い出さねばならないのだ」「もしもまた贖罪の図像を用いて忍耐づよく救済の方向へ進む努力を忘れたり、尊ぶべき聖者の図像をことごとく逆転させて解体させる性急な方向へと転ずるようなことがあれば――」
「キリストさん」は、ホルヘが、そしておそらくは老齢の司教が恐れる世界を切り開く。そして彼は、出会った人々のなかに痛みと笑いとともに生き続けるのだ。
