2009.06.17UP
西川美和監督の3作目『ディア・ドクター』の試写を観る。彼女は人間の曖昧さというものにこだわり、巧みな構成によってそれを炙り出してみせるが、この新作が一番面白かった。
これまでの西川作品のなかでは2作目の『ゆれる』が高く評価され、ロングランを記録しているが、筆者はあまりのれなかった。主人公は、東京で写真家として成功し、自由に生きる弟の猛と、地方で家業のガソリンスタンドを継いだ兄の稔。母の一周忌に久しぶりに帰郷した猛は、稔と兄弟の幼なじみの智恵子とともに、近くの渓谷に出かける。だが、智恵子が吊り橋から激流に転落し、そばにいた稔が法廷に立たされることになる。
この映画では、法廷における駈け引きによって、真実や兄弟の感情が吊り橋のように危うく揺れるはずだったのだろうが、映像からはその揺れが感じられない。なぜなら、観客の関心をある部分やある方向へと振り向ける明確な意図を持ったショットが、ドラマが窮屈に感じられるほどに詰め込まれているからだ。揺れを表現するためには空間が必要になるが、そういう空間の余裕がない。だから、真実や感情の揺れにともなうダイナミズムが生まれない。
1作目の『蛇イチゴ』には、揺れを表現するための空間があった。この映画の導入部からは、平凡ではあるがささやかな幸福を分かち合う家族の姿が浮かび上がってくる。父親は、仕事一筋の典型的なサラリーマン、母親は、嫌な顔ひとつせずに痴呆症の祖父の面倒を見るよくできた主婦、そしてヒロインである娘の倫子は、同僚の教師との結婚を控えて幸せをかみしめている。ところが、父親に勘当され、行方不明になっていた倫子の兄がひょっこり戻ってくると同時に、幸福な家族の姿は表層と化していく。
この兄と倫子の生き方は対照的だ。香典泥棒で稼ぐ兄の人生は嘘で塗り固められている。倫子は常に正論で通してきた。そして、両親も倫子の正論に同調してきたはずだったが、実は無理をしてまで正論を守ろうとして嘘を積み重ねていた。そんな両親は、家族の基盤が崩壊していくに従って、倫子ではなく兄に同調していく。その揺れのなかから、家族の実態が見えてくる。

新作の『ディア・ドクター』にも、そんな揺れを表現するための空間が確保され、『蛇イチゴ』よりも複雑な揺れが見えてくる。この映画は、山間の小さな村から伊野というひとりの医者が失踪するところから始まり、失踪までの2ヶ月のドラマと失踪後の刑事の捜査が交互に描かれていく。
映画のチラシにある「この村に、医者はひとりもいない」というコピーが物語るように、伊野は実は贋医者だった。だが、村の住人たちから"神さま仏さま"よりも頼りにされていた彼は、必ずしも住人たちを騙していたわけではない。
映画の導入部に、この医者がどんな存在であったのかを示唆するエピソードがある。ある老人が寿司を喉に詰まらせ、息絶えようとしているところに、呼び出された伊野と女性看護師と東京の医大を出て村に来たばかりの研修医の相馬が駆けつける。そこで相馬は救急処置を施そうとするが、伊野は特になにもすることなく老人の最期を看取る。彼は老人を取り巻く家族たちに漂う空気を読んで、自分の役割を果たす(ちなみに、『蛇イチゴ』にも、このエピソードに通じる状況があった)。
ところがそのあとで、伊野が遺体を抱きしめた拍子に、詰まっていた寿司が飛び出し、老人は息を吹き返す。すると今度は、玄関の外に集まって様子を見ていた隣人たちが、老人を蘇生させた名医だと騒ぎ出す。
伊野と彼を取り巻く村の住人たち、女性看護師、研修医、薬を卸す営業マンの間には、それぞれに共犯関係や勝手な思い込みがあり、それが伊野を頼れる医者にしている。そんな医者は、外的な力によって次第に追い詰められ、心が揺れていく。一方、井野を取り巻いていた人々も、刑事の前でそれぞれに自分を演じることになる。
真実と嘘の間を揺れる彼らのドラマからは、様々なかたちで人間の曖昧さが浮かび上がってくるが、それだけではない。この映画を観ていると、老人が多く暮らし、医師が不足している村では、本当に何が必要とされているのかということを、あらためて考えさせられる。
