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2009.10.15UP

Y字路とあぜ道、そして歯ブラシとエアコン

妻の妊娠を知ったある若い映画作家が、「出産を映画に撮りたい」と思いたった。

市井昌秀監督の新作『無防備』はその素晴らしい成果だが、ただ出産を描いただけのものではない。それだけならありふれたドキュメンタリーに終始したかも知れない。


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『無防備』10/10(とつきとおか)よりシネマート新宿にて絶賛公開中
シネマート心斎橋、名古屋シネマテークほか全国順次ロードショー
http://www.muboubi.com/
(C)2008『無防備』製作委員会

自ら脚本も担当した市井監督は、出産というモティーフをひとりの女性の再生という普遍的テーマへと昇華させていくのだ。

という訳でヒロインは妊婦(演じるのは市井監督夫人でもある今野早苗)ではなく、彼女との出会いをきっかけに、閉塞状況の日常生活からの脱却を図るようになる30代の主婦の方である。

森谷文子が演じるプラスティック工場で働く律子は、過去の不幸な事件のトラウマから心を閉ざし、機械のように坦々と生きている。その彼女の前に、臨月の大きなお腹をかかえた千夏がアルバイトの工員として現われる。工場からの帰路、たんぼのあぜ道を肩を並べて歩く2人は、いつもY字路の手前で「さよなら」を交わす・・・。

律子と千夏の日常の対照的な方向性を、このY字路が巧みに象徴して心憎いばかりだ。

千夏に対する律子の感情は友情、共感からいつしか嫉妬、反感へと微妙に揺れ動いていくのだが、律子の心に決定的瞬間が訪れるとき、どこまでも真っ直ぐに伸びるあぜ道が、思いもよらぬ効果を発揮するのだ。

全力を振り絞って律子が疾走するとき、そのあぜ道は彼女の再生の舞台へと変貌する。田んぼに足を滑らせ泥まみれとなった律子、そして演じる森谷文子の姿がこの上なく美しく輝いてみえる一瞬である。

『無防備』は第30回ぴあフィルムフェスティバルでグランプリを含む3賞を獲得し、第13回釜山国際映画祭でグランプリの栄誉に輝いた秀作である。

さらに、市川監督の前作であり長編デビュー作でもある『隼』は第28回ぴあフィルムフェスティバルで準グランプリを受賞済みだ。

実は『無防備』の劇場用パンフレットに寄稿することになったとき、参考になればと『隼』を観る機会が与えられたのだが、その余りの面白さに仰天! 『無防備』に勝るとも劣らぬ秀作なのである。これを紹介しないではいられなくなったのだ。

『隼』は『無防備』とはがらりと趣が異なってコメディである。主要登場人物はたったの2人──貧しさを絵に描いたようなボロアパートで暮らす若い夫婦で、夫は古紙回収業、妻は焼肉店のウエイトレスだ。

だらしなく眠りこけている夫の頭を膝に乗せ、歯をみがいてやりながら、目覚めさせるのが妻の毎朝の務め──貧しいけれど仲よく楽しく暮らしている様子が、画面からただよう。彼らに唯一欠けているものがあるとすれば、それはエアコンだ。そのせいで家の中での2人は四六時中、裸同然──夫は白のブリーフだけ、妻もシュミーズ一枚というしどけなさ。

『無防備』の森谷文子と、同作で同僚の工員仲間を演じている中村邦晃がこの夫婦役を演じて絶妙の味を醸し出していく。

ドラマが動き出すのは、夫にさぼり癖が出始めると同時に、妻も勤め先の店主と衝突して失業し、翌月からふてくされて寝てばかり、と状況が一変する辺りからだ。

夫と妻の立場逆転のコミカルな展開のおかしさは、是非DVDでご覧いただきたいと思う。観終わって、しみじみとあったかくなるコメディでありながら、不条理コメディとしての苦い味も捨て難い。そして何よりも『隼』は素晴らしい純愛物語であることに気づかされる。

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今野雄二(映画・音楽評論家)
1943年生まれ。北海道出身。国際基督教大学(ICU) 卒業後、出版社勤務を経て評論活動へ。「11PM」など数々のTV、ラジオ番組で映画、音楽を紹介。「週刊朝日」の星とり評を連載中。

Title Photo:Tsuyoshi Harikae
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